終戦記念日に思う

2026/08/15

概要

今年81年目の終戦記念日を迎えた。テレビでは盛んに戦争で亡くなった人々の記録に触れ、二度と戦争は起こさない、と報じている。いつも被害者目線での報道だが、日本が何故アメリカに宣戦布告したか、アジアの人々に何をしたかはほとんど報じられない。

私は1970年代後半にフィリピンのマニラに出張(アワード)に行ったことがあった。マニラの夜の盛り場で現地の若者グループに「Japanese KENPEITAI!」と叫ばれ追いかけられたことがあった。1945年2月から3月のマニラ市街戦で日本人兵隊約1万2千人、巻き添えになった現地市民約10万人が亡くなったとされる。

戦争というと父の世代の人生を思う。父は大正11年8月農家の次男に生まれ、秋田県淀川村の中学校を卒業し、働いていた室蘭の鉄工所で招集されマニラで終戦を迎えた。

帰還して秋田市の鉄工所に就職し昭和21年に母と見合い結婚し、昭和22年に私が生まれた。

今となっては父の戦争体験を辿ることは出来ないがAI Claudeととも記憶を辿り父の足跡に少しでも近い記録に触れてみた。

画像は全てAI Geminiによる生成画像

父とマニラ、八月十五日に寄せて

一枚の写真と、消えない傷跡

古い家族写真の中に、一枚だけ記憶に残っているものがある。セーラー服姿の若い父が、背景に日章旗を掲げて写っている一枚だ。当時の出征兵士がよく撮った、写真館での壮行の記念写真だったのだろう。誰が撮ったのか、いつ撮られたのかを聞くことは、もうできない。

もう一つ、子供の頃の記憶として残っているものがある。父の左肩は10センチほどケロイド状になっていて中央に窪んだ傷跡があった。時々化膿し母が手当てしていた。その後肩を手術した。米軍の爆弾の破片が、終戦のときからずっと父の肩にめり込んだままになっていた。それを取り除く手術だった。父はその傷について、多くを語らなかった。

だが、それは父が沈黙を選んだというよりも、当時まだ幼かった私自身が、負けた戦争というものにさほど関心を持てなかった、という方が正確だと思う。父が語らなかったのではなく、私が聞かなかったのだ。今になって、その空白を悔やんでいる。

父は海軍の飛行機整備兵として、フィリピンのマニラに従軍していた。搭乗員ではなく、機体を整え、飛行場を支える側の兵士だった。今、AIによる史料調査の力を借りて、父が生きた時代の記録に、少しずつ触れてみようと思う。

マニラ占領——整備兵として送られた地

日本軍がマニラを占領したのは、太平洋戦争が始まってからわずか一か月後のことだった。1941年12月にルソン島へ上陸した日本軍は、翌1942年1月2日には早くも首都マニラを制圧し、以後3年8か月にわたって軍政を敷くことになる。

マニラ南方にあったニコルス飛行場は、当初は陸軍が使用していたが、1942年12月からは大日本帝国海軍が接収した。1944年7月には海軍航空隊の大規模な編成替えが行われ、陸軍にならって航空機を持たず基地業務のみを担当する部隊——いわゆる「乙航空隊」——が編成される。ニコルス飛行場は、フィリピン諸島各地の海軍航空基地を統括する「菲島海軍航空隊」の拠点となった。

父のような整備兵の仕事は、この基地業務の中核だった。零戦や陸上攻撃機の整備、補給、被弾機の応急修理。搭乗員のように空を飛ぶことはないが、飛行場という米軍の主要な攻撃目標のすぐそばで、日々を過ごす立場だった。

迫る戦局——1944年、空襲の下で

1944年後半になると、フィリピンの日本軍航空基地は米機動部隊による反復攻撃にさらされるようになる。同年11月13日から14日にかけて、マニラ港・湾に停泊していた日本海軍の艦艇が、米空母艦載機による集中的な攻撃を受けた。軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「初春」「沖波」、そしてキャビテ軍港で修理を待っていた「曙」「秋霜」が相次いで大破着底し、その他に停泊していた輸送船数隻も壊滅した。この時期、ニコルス飛行場をはじめとする周辺の飛行場も繰り返し空襲の標的となっている。

「軍艦の甲板で破片を受けた」という私が耳にした記憶は、おそらくこの空襲と重なるものだったのではないかと思う。整備兵という立場でありながら、なぜ艦上にいたのかは分からない。荷役や連絡といった任務でたまたま乗艦していたのか、あるいは避難の途中だったのか。だが、マニラ港に停泊していた日本の艦船が、これほど集中的に爆撃を受けた記録は、この1944年11月の空襲をおいて他に見当たらない。父の肩の傷は、この日の出来事だったのかもしれない。

マニラの戦い——急造の「防衛隊」として

1945年1月、米軍がルソン島リンガエン湾に上陸すると、第14方面軍司令官・山下奉文大将は、レイテ島の戦いですでに精鋭部隊を失っていたこともあり、マニラでの決戦を避けてルソン島北部の山岳地帯へ主力を撤退させる方針を取った。マニラを無防備都市とする案も検討されていたという。

マニラの市街戦(1945年2月から3月)

しかし、マニラ防衛を担っていた海軍側の指揮官・岩淵三次少将は、この方針に猛烈に反対した。結果として、山下は山中へ退却し、マニラの防衛は岩淵率いる「マニラ海軍防衛隊」に委ねられることになる。

この部隊の中身に、父の姿を重ねずにはいられない。マニラ海軍防衛隊は当初、約2万6千人の海軍軍人・軍属を擁していたが、兵器不足で戦力化できない者たちは次々と後方へ移動させられ、実際に市街戦を戦ったのは約1万人だったとされる。しかもこの水兵たちの多くは、陸戦隊のような地上戦闘の訓練をほとんど受けておらず、武装も小銃程度に過ぎなかった。

飛行機を失った航空基地の整備兵や事務要員が、まともな訓練もないまま、小銃一丁を持たされて市街戦に投入される——これがマニラ海軍防衛隊の実態だった。1945年2月から3月にかけての市街戦で、マニラの市街地は徹底した砲爆撃によって廃墟と化し、日本兵の死者は約1万2千人、そして犠牲になった市民は約10万人にのぼったとされる。指揮官の岩淵三次は、2月26日、戦闘中に司令部で自決した。

父が、本来の任務とはまったく異なる地上戦を、この混乱の中で強いられた可能性は十分にある。

敗戦を知る、そして帰還へ

市街戦を生き延びたマニラ海軍防衛隊の残存兵力は南部へ脱出し、陸軍・振武集団の指揮下で「古瀬部隊」として再編された。その後も彼らは、山中での持久戦を強いられることになる。

終戦から4日後の8月19日、山下奉文大将は連合軍の停戦命令を受け入れた。しかし、山中に分散していた各部隊への連絡は容易ではなく、全軍が降伏するまでにはさらに半年を要した。降伏までの間に、ルソン島だけで20万人もの日本兵が戦死・戦病死したという。そのほとんどは戦闘によるものではなく、マラリアや赤痢による病死、そして餓死だった。

父にとって「終戦を知る」瞬間は、もしかすると8月15日そのものではなく、もっと後になって、山中や収容所の中で伝えられたものだったかもしれない。

生き残った兵士たちは、やがて内地への帰還船に乗ることになる。南方からの復員には、空母や巡洋艦、大型駆逐艦が転用され、実際に1945年10月には、マニラで駆逐艦「槇」が復員船として使われた記録も残っている。神奈川県の浦賀港は、終戦後に指定された主要な引揚港の一つで、1947年5月に役目を終えるまでに、南方諸地域や中国大陸などから56万人以上の帰還者を受け入れた。祖国が近づくにつれて男泣きする復員兵の姿を伝える手記も残されている。

破片を肩に残したまま、父はこの引揚げの過程を経て、日本へ帰ってきたのだろう。

戦後の沈黙、あるいは語られなかった理由

父は戦争について、多くを語らなかった。しかしそれは、父が固く口を閉ざしていたというよりも、当時幼かった私が、負けた戦争という重い過去に、あまり関心を向けられなかったからなのだと思う。父が語らなかった沈黙ではなく、私が作った沈黙だったのかもしれない。 肩の中に何十年も残っていた破片は、父にとって、忘れることのできない身体の記憶だった。それでも父は、それを武勇伝としても、悲劇としても語ることなく、日常の中に静かにしまい込んでいた。整備兵として、本来の任務ではない市街戦に巻き込まれ、破片を受け、それでも生き延びて帰ってきた——その一つひとつの事実を、私は父の口からではなく、後年の史料から辿ることになった。

結び——知らなかった時代に触れて

八月十五日という日に、名もなき一人の整備兵の足跡を、こうして史料から辿ることができた。父が生きた時代を、私はほとんど知らずに育った。だが今、AIによる史料調査の助けを借りることで、当時の記録に触れ、父が置かれていたであろう状況を、輪郭だけでも思い描くことができるようになった。

父が語らなかった——いや、私が聞かなかった——戦争の記憶は、もう本人の口から確かめることはできない。しかし、その空白を歴史の記録で埋めていく作業もまた、戦争を語り継ぐ一つのかたちなのだと思う。肩に残った破片は、もう父の体にはない。けれど、その傷が語りかけてくるものは、これからも私の中に残り続けるだろう。

スミソニアン博物館にて

現役時代にアメリカ出張の折り、ワシントンDCのスミソニアン博物館で日本の神風特攻隊のゼロ戦がアメリカ軍の戦艦に突撃するもほとんどが艦砲射撃で海に煙を吐き舞い落ちる白黒の映画をみた。解説は「無駄死にする日本兵..」のようなことを連想したが「命を懸けて愛するもののために戦う..」のようなことが書かれていた。太平洋戦争というとあの時の映像とアメリカ人の心の広さを知った記憶がよみがえる。

このことについてGeminiから情報を得た。

スミソニアン博物館をはじめとする近年のアメリカの歴史展示やドキュメンタリー映像では、特攻隊員(神風特別攻撃隊)を単なる狂信者や軍の操り人形として描くのではなく、「愛する家族や祖国を守るために命を捧げた若者たち」という人間的な側面から解説する構成が実際に広く取り入れられています。 Air & Space Forces Association 米国での評価・解説の変遷 Air & Space Forces Magazine 戦時中から戦後初期の視点 戦時中や終戦直後は、アメリカ軍にとって特攻は恐怖と理解不能の対象であり、プロパガンダ的にも「盲目的な狂信」や「無謀な戦術」として語られることが大半でした。 Air & Space Forces Magazine 遺書や手記の研究による視点の転換 戦後、学術研究や資料収集が進むにつれ、学徒出陣などで出撃した若い搭乗員たちが遺した手紙、日記、遺書が英訳されて米国でも知られるようになりました。 そこには軍国主義への賛美だけでなく、残される母や妻、兄弟への深い愛情、そして「自分が身を挺することで愛する家族の住む故郷を守りたい」という切実な想いが綴られていました。 スミソニアン等の展示・映像における解説の要素 Air & Space Forces Magazine スミソニアン航空宇宙博物館の第二次世界大戦展示やそこで上映される関連映像では、以下のような文脈で語られることがあります。 Military Gallery 個々の若者の人間性と動機 彼らは死を望んでいたわけではなく、極限状況の中で「自分を犠牲にして家族や愛する人たちを救う」という信念を拠り所に飛び立っていったという解説。 English : sacrificed their lives to protect their country and families(祖国と家族を守るために自らの命を捧げた) Air & Space Forces Magazine 他 1 件 千人針や手紙の展示 家族が祈りを込めて縫った千人針や、出撃直前に書かれた家族宛ての言葉を引用し、彼ら一人ひとりに愛する家族や日常があったことを伝える演出。 Yokogao Magazine 日米双方の兵士への敬意と戦争の悲劇性 艦艇を守るために必死に対空砲火を撃ち続ける米兵の勇気と同時に、愛する者のために散っていった日本兵の悲痛な決意の双方に光を当て、戦争という極限状態がもたらした最大の悲劇として位置づける構成。 記憶に残られている「愛する者のために命を懸けて戦う」という趣旨のナレーションは、まさにこうした人間味と悲哀に焦点を当てた近年の歴史的アプローチに基づいたものです。 Yokogao Magazine

(画像:click=動画開始)

神風特攻隊

感想

父の世代は生きるか死ぬかの青春時代を経験をしている。よく分からないまま戦地に駆り出され多くの兵士が命を落とした。

私の世代は父の世代に比べれば極貧の時代ではあったが少なくても生きていく希望があった。それも父と母の世代の汗と涙のおかげと、81回目の終戦の日に改めて思う。

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