今年81年目の終戦記念日を迎えた。テレビでは盛んに戦争で亡くなった人々の記録に触れ、二度と戦争は起こさない、と報じている。相変わらずの被害者目線での報道が多いが、日本が何故アメリカに宣戦布告したか、アジアの人々に何をしたかはほとんど報じられない。
私は1970年代後半にフィリピンのマニラに出張(アワード)に行ったことがあった。マニラの夜の盛り場で現地の若者グループに「Japanese Kenpeitai !」と叫ばれ追いかけられた。1945年2月から3月のマニラ市街戦で日本人兵隊約1万2千人、巻き添えになった現地市民約10万人が亡くなったとされる。
戦争というと父の世代の人生を思う。父は大正11年8月秋田県仙北郡淀川村の農家の次男に生まれ中学校を卒業し、北海道室蘭の製鉄会社に就職。当時農家の長男は跡継ぎとして大事に育てられたが、次男、三男は自分で生きていかなければならなかった。秋田県からは多くの県民が北海道に渡った。父は太平洋戦争で招集されマニラで終戦を迎えた。
帰還して秋田市の鉄工所に就職し昭和21年に母と見合い結婚し、昭和22年に私が生まれた。
今となっては父の戦争体験を辿ることは出来ないがAI Claudeととも記憶を辿り父の足跡に少しでも近い記録に触れてみた。
*出典コメントのない画像は全てAI GeminiとChatGPTによる生成画像
一枚の写真と、消えない傷跡
古い家族写真の中に、一枚だけ記憶に残っているものがある。セーラー服姿の若い父が、背景に旭日旗を掲げて写っている一枚だ。当時の出征兵士がよく撮った、写真館での壮行の記念写真だったのだろう。誰が撮ったのか、いつ撮られたのかを聞くことは、もうできない。
もう一つ、子供の頃の記憶として残っているものがある。父の左肩は10センチほどケロイド状になっていて中央に窪んだ傷跡があった。時々化膿し母が手当てしていた。その後肩を手術した。米軍の爆弾の破片が、終戦のときからずっと父の肩にめり込んだままになっていた。それを取り除く手術だった。父はその傷について、多くを語らなかった。
だが、それは父が沈黙を選んだというよりも、当時まだ幼かった私自身が、負けた戦争というものにさほど関心を持てなかった、という方が正確だと思う。父が語らなかったのではなく、私が聞かなかったのだ。今になって、その空白を悔やんでいる。
父は海軍の飛行機整備兵として、フィリピンのマニラに従軍していた。搭乗員ではなく、機体を整え、飛行場を支える側の兵士だった。今、AIによる史料調査の力を借りて、父が生きた時代の記録に、少しずつ触れてみようと思う。
マニラ占領——整備兵として送られた地
日本軍がマニラを占領したのは、太平洋戦争が始まってからわずか一か月後のことだった。1941年12月にルソン島へ上陸した日本軍は、翌1942年1月2日には早くも首都マニラを制圧し、以後3年8か月にわたって軍政を敷くことになる。
マニラ南方にあったニコルス飛行場は、当初は陸軍が使用していたが、1942年12月からは大日本帝国海軍が接収した。1944年7月には海軍航空隊の大規模な編成替えが行われ、陸軍にならって航空機を持たず基地業務のみを担当する部隊——いわゆる「乙航空隊」——が編成される。ニコルス飛行場は、フィリピン諸島各地の海軍航空基地を統括する「菲島海軍航空隊」の拠点となった。
父のような整備兵の仕事は、この基地業務の中核だった。零戦や陸上攻撃機の整備、補給、被弾機の応急修理。搭乗員のように空を飛ぶことはないが、飛行場という米軍の主要な攻撃目標のすぐそばで、日々を過ごす立場だった。
憲兵隊とマニラ市民

サンチャゴ要塞 (画像:Intramuros dministration)
日本占領下のマニラで最も恐れられたのが憲兵隊だった。本来は軍紀維持のための組織だが、占領地では治安維持と防諜(ゲリラ・スパイの摘発)を任務とし、市民生活を隅々まで監視した。
拠点は旧市街イントラムロスのサンチャゴ要塞。尋問・拘留施設として使われ、ゲリラとの関わりを疑われた市民が次々と地下牢に送られた。取り調べでは、被拘束者に大量の水を飲ませ窒息寸前に追い込む「水責め」や、竹片を爪の間に差し込む拷問、殴打が日常的に行われたと伝えられる。地下牢の一部は満潮時に川の水が浸入する構造で、身動きの取れない被拘束者が水位の上がる暗闇の中で窒息死する凄惨な処刑もあったという。
生存者の証言も残る。政治犯エンリケ・フェルナンデスは1944年8月18日から9月24日まで38日間サンチャゴ要塞に拘束された体験を手記に残し、息子マニーが戦後その証言を伝える活動を続けている。
被害規模を示す数字もある。1945年2月10日〜23日の間だけで、拘束されていた約4,000人のフィリピン人が飢餓と拷問で命を落としたとされ、マニラ解放時、米軍は地下牢で折り重なった民間人の遺体を発見したと記録されている。同時期、サント・トマス大学に抑留されていた米国人ら約3,700人の民間人捕虜の間でも1日3〜4人が餓死しており、シャーマン戦車による門の突破でようやく解放された。
こうした激しい拷問の背景には、当時拡大していた抗日ゲリラ活動があった。旧米極東陸軍系の「ユサッフェ・ゲリラ」約2万2千人と、フィリピン共産党系「フクバラハップ」を中心に数万人規模の武装勢力が各地で攻撃・後方攪乱を繰り返し、日本軍は「昼間は歩けない」と言うほどの脅威を感じていた。ゲリラは軍服を着ず市民に紛れて活動したため、日本軍には協力者と無関係な市民を区別する手段がほとんどなく、油断した部隊が奇襲される例も相次ぎ、「疑わしきは討伐する」という空気が広がった。憲兵隊による市民への拷問・殺害の激化は、こうした報復と恐怖心の連鎖の中で起きたと考えられている。
もっとも、これは拷問を正当化する理由にはならない。多くの無実の市民が関与を証明できないまま犠牲になっており、研究者も「ゲリラと民間人の区別がつかなかった」という説明だけでは全体を説明しきれないと指摘する。背景の理解と、行為の是認とは別のものとして書き分ける必要がある。
1970年代のマニラで「Kenpeitai」という一語を叫びながら追いかけてきた若者がいたという経験も、こうした記憶が世代を超えて刻まれ続けてきたことの証左だろう。
迫る戦局——1944年、空襲の下で
1944年後半になると、フィリピンの日本軍航空基地は米機動部隊による反復攻撃にさらされるようになる。同年11月13日から14日にかけて、マニラ港・湾に停泊していた日本海軍の艦艇が、米空母艦載機による集中的な攻撃を受けた。軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「初春」「沖波」、そしてキャビテ軍港で修理を待っていた「曙」「秋霜」が相次いで大破着底し、その他に停泊していた輸送船数隻も壊滅した。この時期、ニコルス飛行場をはじめとする周辺の飛行場も繰り返し空襲の標的となっている。
「軍艦の甲板で破片を受けた」という私が耳にした記憶は、おそらくこの空襲と重なるものだったのではないかと思う。整備兵という立場でありながら、なぜ艦上にいたのかは分からない。荷役や連絡といった任務でたまたま乗艦していたのか、あるいは避難の途中だったのか。だが、マニラ港に停泊していた日本の艦船が、これほど集中的に爆撃を受けた記録は、この1944年11月の空襲をおいて他に見当たらない。父の肩の傷は、この日の出来事だったのかもしれない。
マニラの戦い——急造の「防衛隊」として
1945年1月、米軍がルソン島リンガエン湾に上陸すると、第14方面軍司令官・山下奉文大将は、レイテ島の戦いですでに精鋭部隊を失っていたこともあり、マニラでの決戦を避けてルソン島北部の山岳地帯へ主力を撤退させる方針を取った。マニラを無防備都市とする案も検討されていたという。

マニラの市街戦(1945年2月から3月)
しかし、マニラ防衛を担っていた海軍側の指揮官・岩淵三次少将は、この方針に猛烈に反対した。結果として、山下は山中へ退却し、マニラの防衛は岩淵率いる「マニラ海軍防衛隊」に委ねられることになる。
この部隊の中身に、父の姿を重ねずにはいられない。マニラ海軍防衛隊は当初、約2万6千人の海軍軍人・軍属を擁していたが、兵器不足で戦力化できない者たちは次々と後方へ移動させられ、実際に市街戦を戦ったのは約1万人だったとされる。しかもこの水兵たちの多くは、陸戦隊のような地上戦闘の訓練をほとんど受けておらず、武装も小銃程度に過ぎなかった。
飛行機を失った航空基地の整備兵や事務要員が、まともな訓練もないまま、小銃一丁を持たされて市街戦に投入される——これがマニラ海軍防衛隊の実態だった。1945年2月から3月にかけての市街戦で、マニラの市街地は徹底した砲爆撃によって廃墟と化し、日本兵の死者は約1万2千人、そして犠牲になった市民は約10万人にのぼったとされる。指揮官の岩淵三次は、2月26日、戦闘中に司令部で自決した。
父が、本来の任務とはまったく異なる地上戦を、この混乱の中で強いられた可能性は十分にある。
敗戦を知る、そして帰還へ
市街戦を生き延びたマニラ海軍防衛隊の残存兵力は南部へ脱出し、陸軍・振武集団の指揮下で「古瀬部隊」として再編された。その後も彼らは、山中での持久戦を強いられることになる。
終戦から4日後の8月19日、山下奉文大将は連合軍の停戦命令を受け入れた。しかし、山中に分散していた各部隊への連絡は容易ではなく、全軍が降伏するまでにはさらに半年を要した。降伏までの間に、ルソン島だけで20万人もの日本兵が戦死・戦病死したという。そのほとんどは戦闘によるものではなく、マラリアや赤痢による病死、そして餓死だった。
父にとって「終戦を知る」瞬間は、もしかすると8月15日そのものではなく、もっと後になって、山中や収容所の中で伝えられたものだったかもしれない。
生き残った兵士たちは、やがて内地への帰還船に乗ることになる。南方からの復員には、空母や巡洋艦、大型駆逐艦が転用され、実際に1945年10月には、マニラで駆逐艦「槇」が復員船として使われた記録も残っている。神奈川県の浦賀港は、終戦後に指定された主要な引揚港の一つで、1947年5月に役目を終えるまでに、南方諸地域や中国大陸などから56万人以上の帰還者を受け入れた。祖国が近づくにつれて男泣きする復員兵の姿を伝える手記も残されている。
破片を肩に残したまま、父はこの引揚げの過程を経て、日本へ帰ってきたのだろう。
戦後の沈黙、あるいは語られなかった理由
父は戦争について、多くを語らなかった。しかしそれは、父が固く口を閉ざしていたというよりも、当時幼かった私が、負けた戦争という重い過去に、あまり関心を向けられなかったからなのだと思う。父が語らなかった沈黙ではなく、私が作った沈黙だったのかもしれない。
肩の中に何年も残っていた破片は、父にとって、忘れることのできない身体の記憶だった。それでも父は、それを武勇伝としても、悲劇としても語ることなく、日常の中に静かにしまい込んでいた。整備兵として、本来の任務ではない市街戦に巻き込まれ、破片を受け、それでも生き延びて帰ってきた——その一つひとつの事実を、私は父の口からではなく、後年の史料から辿ることになった。
結び——知らなかった時代に触れて
八月十五日という日に、名もなき一人の整備兵の足跡を、こうして史料から辿ることができた。父が生きた時代を、私はほとんど知らずに育った。だが今、AIによる史料調査の助けを借りることで、当時の記録に触れ、父が置かれていたであろう状況を、輪郭だけでも思い描くことができるようになった。
父が語らなかった——いや、私が聞かなかった——戦争の記憶は、もう本人の口から確かめることはできない。しかし、その空白を歴史の記録で埋めていく作業もまた、戦争を語り継ぐ一つのかたちなのだと思う。肩に残った破片は、もう父の体にはない。けれど、その傷が語りかけてくるものは、これからも私の中に残り続けるだろう。
現役時代、アメリカ出張の折にワシントンDCのスミソニアン博物館を訪れたことがあった。日本の神風特攻隊のゼロ戦がアメリカ軍の戦艦に突撃し、そのほとんどが対空砲火に撃ち落とされ、黒煙を吐きながら海へ舞い落ちていく白黒の記録映像を見た。てっきり「無駄死にする日本兵」といった解説がつくものと思っていたが、そこに記されていたのは「命を懸けて愛するもののために戦う」という趣旨の言葉だった。太平洋戦争と聞くと、私はいつもあの時の映像と、アメリカ人が過去の敵国の兵士に対しても真実に向き合おうとするその心の広さに触れた記憶がよみがえる。
このことが気になって、AI(Gemini)に尋ねてみた。
すると、あの解説は決して私の記憶違いや誇張ではなく、近年のアメリカの歴史展示に実際に見られる傾向なのだと分かった。スミソニアンをはじめとする博物館やドキュメンタリー映像では、特攻隊員を単なる狂信者や軍の操り人形としてではなく、「愛する家族や祖国を守るために命を捧げた若者たち」という人間的な側面から描く構成が広く取り入れられているという。
もっとも、こうした見方が最初からあったわけではないらしい。戦時中や終戦直後のアメリカでは、特攻は恐怖と理解不能の対象であり、プロパガンダとしても「盲目的な狂信」「無謀な戦術」として語られることが大半だったそうだ。
転機となったのは、戦後に進んだ学術研究と資料収集だという。学徒出陣で出撃した若い搭乗員たちが遺した手紙や日記、遺書が英訳され、アメリカでも知られるようになった。そこには軍国主義への賛美だけでなく、残される母や妻、兄弟への深い愛情、そして「自分が身を挺することで愛する家族の住む故郷を守りたい」という切実な思いが綴られていたという。
スミソニアン航空宇宙博物館の第二次世界大戦展示や関連映像でも、こうした個々の若者の人間性と動機に光を当てる解説がなされているそうだ。彼らは死を望んでいたのではなく、極限状況の中で「自分を犠牲にして家族や愛する人たちを救う」という信念を拠り所に飛び立っていった――そう位置づけられているという。
家族が祈りを込めて縫った千人針や、出撃直前に書かれた家族宛ての言葉を展示に添えることで、彼ら一人ひとりに愛する家族や日常があったことを伝える演出もあるらしい。
艦を守るために対空砲火を撃ち続けたアメリカ兵の勇気と、愛する者のために散っていった日本兵の悲痛な決意――その双方に光を当て、戦争という極限状態がもたらした最大の悲劇として位置づける。それが、近年のアメリカの歴史展示に流れる姿勢のようだ。
あの日、私の記憶に残った「愛する者のために命を懸けて戦う」というナレーションは、まさにこうした人間味と悲哀に焦点を当てた歴史的アプローチの一端だったのだと、今になって腑に落ちた。
父の世代は、生きるか死ぬかの瀬戸際に青春のすべてを賭けざるを得なかった世代だった。何のために、何と戦っているのかさえ十分に理解できないまま戦地へと駆り出され、右も左も分からぬうちに戦火の中に投げ込まれた若者たちは数知れない。彼らの多くが、故郷に帰ることなく異国の地で命を散らした。生き延びた者もまた、心身に深い傷を負いながら、その体験を語ることなく戦後を生きていくことになった。
それに比べれば、私の世代は物質的にはたしかに貧しく、食べるものにも事欠くような時代であった。それでも、明日への希望だけは失わずに生きることができた。振り返れば、それは決して当たり前のことではない。父や母の世代が、言葉にならない苦しみと涙、そして黙々と流した汗によって、次の世代に「生きる余地」を残してくれたからこそ、私たちはその上に立って歩んでこられたのだ。
81回目の終戦の日を迎えるにあたり、あらためてそのことを深く思う。彼らが命がけで守り、耐え忍んで築いてくれた土台の上に、今の平和な日常があるということを、忘れてはならない。