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秋田の赤い靴

2018/04/17~

横浜 山下公園

童謡「赤い靴」は野口雨情作詩、本居長世作曲で1922年(大正十一年)に発表された。子供の頃から時折耳にするがなんとなく切ない。

モデルとされた女の子は静岡県生まれ、北海道でアメリカ人宣教師に引き取られたが、病気のため宣教師とともに渡米することなく九才で亡くなったという(異説あり)。

 【♪うた】赤い靴 (YouTube)

1979年横浜の山下公園に「赤い靴はいてた女の子の像」が作られた。


秋田市立中央図書館明徳館 前庭に建てられた像

こちらは秋田市に建てられたアメリカ人宣教師ミス・カラ・ハリソン(1859~1937)と秋田生まれの金子ハツ(1887~1922)をモデルとした「秋田の赤い靴」の像の話。


ミス・ハリスンが秋田にやってきた背景には秋田教会(現:日本基督教団秋田高陽教会)があった。

現在の日本基督教団秋田高陽教会は、1884年(明治十七年)6月、米国ディサイプル派のジョージ・スミス夫妻とチャールズ・ガルスト夫妻が秋田で伝道したことに始まる。

ディサイプル派は独立戦争後の教会改革運動の中で起こったプロテスタントの一派だが、個人の自由と各自みずからの方法で聖書を解釈する権利を強調することに特徴があり、同派の日本における宣教は秋田が第一歩という点でも注目される教派である。

明治以降多くの宣教師が日本にやってきており、他のいずれの教派も宣教師を派遣していない秋田を選んだのだが、秋田はキリスト教未開の地ではなかった。佐竹藩時代には数百人のキリシタンがいたこともあったが、厳しい取り締まりのため姿を消してしまった。

宣教師たちは、1885年秋田英和学校を設立、1905年秋田幼稚園を設立など秋田の文化に影響を与えた。後に秋田英和学校は無くなったが、秋田幼稚園は現在教会とともに高陽青柳町にある。

宣教師スミスの妻ジョセフィン・スミスは、秋田に来た翌年2月に風邪をこじらせて、3月末に女の子を産んで亡くなり赤ん坊もまもなく亡くなった。生前スミス夫人は二人の若い婦人宣教師の派遣を米国の本部に訴えていたのである。

1859年アメリカのインディアナ州に生まれ、ハノーバー大学を卒業したミス・ハリソンとオハイオ州出身のミス・ジョンソンが、1886年(明治十九年)秋田に派遣された。この年秋田では4月の強風にあおられ俵屋火事と呼ばれた大火災が起き3600戸が焼失した。復興半ばの秋田へ7月に到着したハリソンは早速保戸野に家を買い入れて日曜学校を始め目覚ましい活動を始めた。

日曜学校、英語教室を開き、当時秋田の長野町(現:中通り2~4丁目)にあった女囚監倉(刑務所)へも教戒師として通った。その監倉で、殺人罪で服役中の女囚金子ふじが獄中で赤ん坊を産んだ。

八森のハタハタ漁師の娘だったふじは、能代の奉公先で知り合った船大工の後妻になり、八郎潟の北の大口村(後の浜口村、現:三種町)で姑の面倒をみることになった。ふじは普段から虐待されていた姑が斧を持ち出したのを庇おうとして、誤って夫の連れ子はつの喉を直撃し死亡させ無期懲役で服役していたが、すでに妊娠していた。誤って死なせた子供と同じ名前を生まれた赤ん坊にハツと名付けた。

監倉で子供を育てることは許されず、姑がふじとの関りを嫌ったため離縁され、父親からも引き取りを拒絶された赤ん坊のハツを、ハリソンは引き取り、粉ミルクで育てた。六歳になっても学校にもやれないため、いったんハツはハリソンの宗教上の教え子だった秋田市内の川井運吉の養女にして学校(秋田市立明徳小学校)に通わせた。

川井運吉の父は勤皇家で戊辰の役で大活躍した人である。次男だった運吉は少年の頃好奇心からガルストの日曜学校に通い次第に信仰を深めていった。ハリソンが教師として設立された秋田英和学校に入学した。運吉の父は運吉の信仰をよく理解してアメリカ留学を許したが留学半ばに亡くなったため、運吉は秋田に戻った。ハリソンを敬愛しよく助けた。

ハツの母親、金子ふじは10年8ヶ月の服役の後1897年(明治三十年)獄中にて死去、享年四十二。

ハツが十二歳になったとき、ハリソンは帰国することになったが、肉親にも縁の薄いハツを残していくことが出来ず、二人は横浜から船に乗りアメリカに渡る。

ハリソンはロスアンゼルスでハツの養育を母親に頼み、宣教師としてハワイ島に渡った。ハツが十六才の時ハリソンの母が亡くなったのでロスアンゼルスに戻った。ハツはアメリカではコラ・ジュリア・ハリソンと名乗って、高校、大学に入った。1907年(明治四十年)サンフランシスコで排日暴動が起こるなど、吹き荒れる排日の嵐の中で、大学を出ても就職がないハツのためハリソンはハツとともに再び日系人の多いハワイヘ渡る。

5年ほどハワイ島のコナに住みオアフ島に移った。ハツは家庭的な娘でよくハリソンを助け教師の道を歩むが胸を病み、三十四歳の若さでこの世を去る。ハリソンは七十八歳まで生き、奉仕生活を続けハツとともにハワイの地に眠る。


秋田県鷹巣町(現:北秋田市)出身、能代高等女学校(後の能代北、現:能代松陽高校)卒業の直木賞作家渡辺喜恵子(1913~1997)氏が、昭和五十年にこの物語をもとに小説「タンタラスの虹」を発表している。 タンタラスの丘はホノルルにあるハイキングや夜景の景勝地。

秋田県婦人会館のハワイ研修で、この親子の存在を知ったのが同会館の長谷山包子(かねこ)副理事長。長谷山氏は、その年(1994年・平成六年)が国際家族年であったことから「今から百年も前に、血縁や民族を超えて、深い人類愛から一人の少女を見守った宣教師の行為こそ、真の家族愛を考えることになる」と、県内の婦人団体に秋田の赤い靴像の建立を呼びかけた。

これまであまり知られることがなかったこの実話を語り継いでいこうと、県婦人会館が母子像建立を計画。婦人会館の運営に携わっている全県十五の婦人団体が核となり、四月から九月まで募金活動を展開した。モノが豊かになった反面、人の心が貧しくなったといわれている昨今であるが、婦人団体の不断の努力によって、県内外で大きな反響を呼び、善意の輪が広がっていった。

募金総額は目標の600万円を大きく上回る965万円に膨らんだ。像は十文字町出身で東京芸術大学大学院在学中の皆川嘉博さん(26)に依頼した。1994年(平成六年)ハツが通った明徳小学校跡地の秋田市立中央図書館明徳館の前庭に五カ月を費やして完成した像は、十歳の金子ハツと三十代半ばのハリソンをイメージしているブロンズ像で、120センチの赤御影石の台座に180センチの全身像が立っている。

制作者の皆川氏(現:秋田公立美術大学准教授)は「大きなブロンズ像制作を依頼してくれたことに感謝しています。具象の母子像に抽象の作品である台座が重なり、一つのモニュメントに仕上がりました。無我夢中で制作したこの像が、秋田の皆さんにかわいがってもらうことを願っています」と話してくれた。

(参考資料: 渡辺喜恵子「タンタラスの虹」(1975年発行・新潮社)、ホットアイあきた(通巻390号)1995年(平成7年)1月1日発行)

  秋田の赤い靴に寄せて

明治二十年(一八八七)十一月十四日、金子ハツは秋田女囚監倉で生まれた。息も絶えだえの赤子を、引き取ってミルクを与えたのが、若い宣教師 カラー ハリソン(一八五九~一九三七)である。
 六歳になったハツを学校(現秋田市立明徳小学校)で学ばせたく、ハリソンは教え子の川井運吉に相談した。 結婚前の運吉は分家してハツを養女にした。
 ハリソンの帰国はハツが十二歳の時。残して行くにしのびず、ハツを連れて横浜から船に乗った。後にハツを ロスアンゼルスの大学に入れるが、当時排日の嵐で卒業しても思うような就職口はなくコラ(ハツの米国名)の将来を案じたハリソンは日系人の多いハワイへ渡り共に教師の道を歩むがコラは三十四歳の春、この世を去った。その後もハリソンは日系人のよき師、よき相談者となって七十八歳の生涯を全うした。二人はホノルルのヌアヌ墓地に眠っている。
  - かっては苦悩にうちひしがれし
     異邦人なれど
       いまぞわが故郷に辿り着きぬ - 
 一九二二年胸を病み死を覚悟したコラが残した詩の一 節である。
 九十五年の歳月が流れて、いま、ふるさと人の愛の手がさしのべられた。コラの霊はどんなにか安らぎを得たことであろう。そして信仰と人間愛を貫き通したミス カラー ハリソンのお顔も晴れやかだ。

渡辺 喜惠子 記


平成六年(1994)11月8日
(財) 秋田県婦人会館移転五周年 国際家族年 記念
寄贈 財団法人 秋田県婦人会館
秋田県婦人団体協議会
秋田市婦人団体連絡協議会



参考資料とした 渡辺喜恵子作「タンタラスの虹」(1975年発行・新潮社)は、ハリソンと金子ハツが主人公ではなく、宮城県白石生まれで日本から「写真花嫁」として大正末期にハワイへ渡り、日本人移民と結婚した女性美穂が主人公の物語である。

夢の島ハワイに待ち受けていたのは、過酷な労働と想像を絶する悲惨な生活ではあったが優しい夫と四人の子供に恵まれた。突然夫が事故で死んでしまう。

美穂は歯を食いしばり子供たちを育てたが女手一つでは限界を感じ、密造酒作りの仲間の日本女性から紹介された沖縄出身の移民と再婚した。夫は言葉づかいは乱暴だが家族を大事にする優しい心の持ち主で働き者であった。

夫婦で養豚業を営み何とか一息つけるようになったが、親兄弟の犠牲になって学校にもやれなかった長女初穂の将来を案じた。

夫から、日曜学校の先生だった七十二才のハリソンを紹介され、初穂をハリソンに奉公に出し、家事手伝いの合間に勉強を教えてもらってはどうかといわれた。

美穂と初穂はハリソンが娘を祈念して建てたコラ記念館を訪れた。

ハリソンが誰かに話しておきたかったからと、宣教師として日本に渡って出会った養女コラ、日本名金子ハツの生涯を語った。

 (ここにハリソンとハツの詳しい物語が述べられている。)

美穂と初穂がコラ記念館からの帰りに、タンタラスの山からダイヤモンド・ヘッドに架かる虹を見た。

 (この後も母と娘の家族愛の物語が続く。)

1975年発行・新潮社


映画撮影開始

「秋田の赤い靴」(2019年6月3日配信『河北新報』ー「河北春秋」)

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