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小町堂を訪ねて(秋田県湯沢市小野)

2016/08/16

小町堂

秋田県湯沢市小野にある小町堂を訪ねた。すぐ近くに道の駅 おがち「小町の郷」があり、道の駅は賑わっていたが、小町堂は訪れる人も少なく、寂れた様子。例年芍薬の咲く6月に小町堂で開催される「小町まつり」の時はたくさんの人で賑わう。個人的には、平等院を模したというが、小町の印象とは違って派手で趣味がよくないという印象を受けた。以下、例によって小野小町の伝説について集めてみた。

道の駅 おがち「小町の郷」

小野小町の生誕地と言われている町にあるこの小町堂は、もともと「芍薬塚(しゃくやくづか)」を祀っていた「小町神社」が老朽化したことから、新たに小町を偲ぶ御堂としてつくられたもの。

小町祭り(あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイトより)

日本では、クレオパトラ、楊貴妃と並んで、世界三大美人の一人と云われる小野小町と、深草少将の恋物語の舞台となった場所とされ、江戸時代の紀行家、菅江真澄が小野を訪れており、小町堂の裏にはそのことを記した看板も立っている。

深草少将は小野小町にまつわる「百夜通い(ももよがよい)」の伝説に登場する人物。舞台は平安時代初期の京都。欣浄寺(京都市伏見区)に深草少将の屋敷があり、小町の住む山科の小野の里まで5キロの道を99日通い続けたが、最後の夜大雪のため死んだとされる。京都の山科には、今も、深草少将が小町のもとへ百夜通いしたという通い道が残っている。

秋田県の伝説では、小野小町は、大同4年(809年)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の雄勝町小野字桐木田)で生まれた。 大変美しく、幼少より歌や踊り、琴、書道に通じ13歳頃、都にのぼり、都の風習や教養を身につけた。その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けた。後に、宮中の生活に嫌気がさし、36歳頃故郷である小野の地に戻るが、深草少将は小町を追い身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝える。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬(しゃくやく)を植えてほしいという。小町が少将を避けたのは疱瘡を患い百日経つ頃には回復すると思っていた。少将は百夜目に橋と共に森子川に流されて亡くなってしまう。小町は少将が仮の宿としていた長鮮寺に住んで92歳まで少将を弔って暮らした。

通小町(「能楽図絵」月岡耕漁)

小野小町は観阿弥原作、世阿弥改作の能物語「通小町(かよいこまち)」にも登場する。素材は百夜通い伝説の故事から。舞台の前場は山城の国八瀬(現・京都市左京区八瀬)。小野小町を題材にした七つの謡曲の一つ。
"八瀬の里で修行する僧のもとへ毎日木の実や薪を持って来る女がいました。今日もいつものように女が来て木の実づくしの物語などをしますが、僧に素性を問われると「小野とはいはじ薄(すすき)生ひけり」とだけ口ずさみ、姿を消してしまいます。僧は小野小町の幽霊だろうと察し、市原野に出掛け、小町の亡き跡を弔います。すると薄(すすき)の中から小町の亡霊が現れ、受戒を請います。すると続いて深草少将の亡霊が現れ、小町の成仏を妨げ、共に愛欲の地獄に留まろうと小町の成仏を妨げます。少将は生前小町に百夜通いを求められ、雨の夜も雪の夜も小町の指示通りに身をやつした姿で小町を慕って通い続けたが、九十九夜目に思いを果たせぬまま死んでしまったのでした。そこで僧は二人に受戒を勧め、懺悔としてかつての百夜通いの有様を再現するように説きます。少将は百夜通いの様子を狂おしく再現して見せ、やがて二人とも一念の悟りによって共に成仏します。"

小野小町の和歌についてはこちら

土佐光起(1617年〜1691年)土佐派の絵師・和泉国堺出身



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