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生田緑地ばら苑

2018/05/11

2018年生田緑地ばら苑は5月10日に開園したが午前中雷雨となったので、11日に訪問。前回は2016年10月16日に訪れている。前回春にいったのは2015年5月21日。

小田急線向ケ丘遊園駅から徒歩で15分ほど「ばら苑アクセスロード」を行くとばら苑の下に着く。「ばら苑アクセスロード」は平成14年に閉園になった向ケ丘遊園のモノレール跡地で沢山のばらが植えられている。ばら苑の下から坂を上り最後は階段を登るとばら苑に到着。

530種4,700株のばらがよく手入れされている。うれしいことに全てのばらに丁寧に名札があり説明が書かれている。このばら苑は1958年に開園した当時「東洋一のばら苑」と賞された。2002年に向ケ丘遊園が閉園になったがばら苑は川崎市が引き継いだ。今年開園60年を迎えた。

今回の目標は、ばらの殿堂入りした「エリナ」と「クィーンエリザベス」。「エリナ」は5分咲きだが形の良い咲きたての花姿が撮れたと思うが、「クィーンエリザベス」はほとんど全部の花の外側の花弁がすでに枯れ始めており、次の機会に譲った。

ばら苑アクセスロード

ばら苑到着

カクテル 2015年ばらの殿堂入り

プリンセス ミチコ ディクソン社(英)1966年

オジリア

プレイボーイ

グラハム トーマス 2009年ばらの殿堂入り David Austin(英)1983年

カトリーヌ ドゥ ヌーブ

サイレンス イズ ゴールデン

マスケラード

エリナ

エリナ

リバプール エコー(リバプール)

ドフトボルケ 別名 フレグラント クラウド(Fragrant Cloud)

プリンセス ド モナコ

ピース

丹頂 京成バラ園芸

アイスバーグ

ロイヤル スカーレット ハイブリッド

プリンセス ド モナコ

ブラックバカラ

マダム ビオレ 寺西菊雄 1981年

ブルームーン

ローラ'81

アルバータイン

ハマナス

スブニール ドゥ アンネ フランク (Souv. d'Anne Frank) ベルギー:デルフォルグ 1960年


「スブニール ドゥ アンネ フランク (Souv. d'Anne Frank)」は「アンネフランクの思い出」、「アンネのバラ」ともよばれる。 最初にこのばらに出会ったのは東京都町田市野津田公園ばら広場。奥の方にこの花のコーナーガあり、説明プレートがあった。花はすでに見頃を過ぎて点々とシミが出始めていた。その後ばら広場を訪れる度になんとか綺麗な花姿を撮ろうと思っていたが、いつも時期的にあわなかったりその前日の天候にめぐまれなかったりしていた。この日生田緑地ばら苑で丁度見頃に出会った。

アンネ・フランク

「アンネのバラ」について
 『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクは、第2次世界大戦の終結前、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に収容され、15歳で病死しました。その14年後の1959年、スイス旅行中のベルギー人園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘ氏は、アンネ・フランクの父オットー・フランク氏に出会い、アンネが自然をこよなく愛していたこと、特にバラの花が好きだったことを知りました。
 以前から『アンネの日記』に感銘を受けていたデルフォルヘ氏は、1955年に自ら作出したバラに、1960年になって「Souvenir d’Anne Frank」(直訳すると「アンネ・フランクの思い出」、日本では「アンネ・フランクの形見」といわれる)と名付け、発表しました。
 1971年、大槻道子という日本人がオットー・フランク氏と奇跡的に出会い、翌年のクリスマスにフランク氏からバラの苗木を10本を分けていただきました。その後、山室隆一氏にバラの増殖が託され、隆一氏が亡くなられた後はご子息建治氏がその栽培を受け継ぎ、アンネのバラは「戦争のない、平和な世界に」というアンネの願いとともに、日本全国に広まっています。
 「アンネのバラ」は、蕾の時は赤、開花すると黄金色になり、時間の経過とともにサーモンピンクに変色し、やがて更に濃いピンクに変色するという具合に、色が変わっていきます。さまざまに色を変えるバラを「アンネのバラ」として選んだことには、意味があります。
 アンネは豊かな才能を秘めたまま戦争と民族差別のために、若くして命を奪われました。そんな彼女が生きていたなら、その才能を活かし、人生において幾つもの美しい花を咲かせたに違いありません。多彩に変容する「アンネのバラ」には、多くの可能性を秘めたアンネを表現し、平和を祈るというヒッポリテ・デルフォルへ氏の願いが込められています。
 (フェリス女学院サイトより)



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