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美術館訪問記 - 569 サン・ニコラ聖堂、Bari

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サン・ニコラ聖堂正面

添付2:サン・ニコラ聖堂入り口前の彫刻

添付3:サン・ニコラ聖堂内部

添付4:サン・ニコラ聖堂内部

添付5:サン・ニコラ聖堂聖体用祭壇

添付6:バルトロメオ・ヴィヴァリーニ作
「玉座の聖母子と四聖人」 写真:C.C.

添付7:バルトロメオ・ヴィヴァリーニ作
「玉座の聖母子と四聖人」部分図

前回の県立絵画館のあるバーリには二つの町があります。新市街と旧市街です。

県立絵画館のある新市街はナポレオンの義弟だった啓蒙思想家のミュラにより都市計画に基づいて造られ、道路は広く碁盤の目のように平行に交差しています。

一方の旧市街は北側の半島部分の狭い範囲に集中しており、小高い丘を中心に狭く入り組んだ坂道には民家が建て込み迷路のようになっています。

その旧市街の中心にあるのが「サン・ニコラ聖堂」。

バーリの守護聖人聖ニコラウス(聖ニコラ)を祀り、キリスト教徒の巡礼地として世界中から信者の集まる聖堂です。

聖ニコラウスはサンタクロースのもととなった聖人。第421回で詳述しました。

聖ニコラウスは345年頃に死亡し、ミラ(現在はトルコの一部)にあった彼の聖遺物を、ミラがイスラム王国のセルジューク朝に征服された混乱に乗じてバーリの船乗りたちが略奪し、バーリに移しこの聖堂を建てたといいます。

聖堂は1087年着工、1103年完成の、バーリのあるブーリア地方独特のブーリア・ロマネスク様式で、ファサードは垂直型三分割。それぞれに入口と窓があります。

ファサードの両脇には角張って頑丈な望楼のような塔があり、教会というよりは城塞のような形状をしています。実際に長い歴史の中では城塞として使われた事もあるそうです。

入り口扉横に、いかにもロマネスク時代らしいとぼけた味の動物彫刻がありました。

内部はファサードに対応した三廊式で、主廊の左右の柱の上部はアーチを描いて主廊の上で2階部分を結ぶ通路のように結ばれています。その上の天井は随分高く、金色の縁取りをされた幾つものフレスコ画があります。

主祭壇の上には聖体用の祭壇があり、そこに置かれた容器には聖ニクラウスの遺体が収められています。1150年以前に造られたという聖体用祭壇はいかにも古めかしく、上部は2段のサーカスのテントのようになっており、若干イスラム的な感すら漂います。

礼拝堂には立派な祭壇に飾り付けられた色鮮やかなバルトロメオ・ヴィヴァリーニの「玉座の聖母子と四聖人」がありました。

画面の右下後方に3つの金の玉を持った聖ニコラの姿があります。1476年の作で、この頃バルトロメオはプーリア地方でも活躍したようです。

バルトロメオは前回触れたアントニオ・ヴィヴァリーニの歳の離れた弟で、1430年頃ムラーノ島で生まれ、兄の手ほどきを受けて修行した後、パドヴァに行き、画家修業をしています。

当時パドヴァにはバルトロメオと同世代のマンテーニャやカルロ・クリヴェッリ等がいて、特にマンテーニャの影響は強く、明瞭な輪郭線による単純な構図、彫刻的な人体表現、古典的な建築物描写などに反映されています。

アントニオの義弟ジョヴァンニ・ダレマーニャが1450年に急死すると、それまでの緊密なパートナーを失った兄アントニオの助手としてヴィヴァリーニ工房で働き、徐々に兄をしのぐようになっていきます。

バルトロメオ独自の手になる最初の作品は1459年に描かれていますが、それ以降工房作品以外にも独自作品が増えていきます。

1470年代末までには、それまでの金地の国際的ゴシック表現からルネサンス的な透明感のある光彩表現と遠近法を駆使した画風でヴェネツィアの祭壇画市場を席捲するまでになります。

ヴィヴァリーニはイタリア語で小鳥のゴシキヒワを意味しますが、バルトロメオはサイン替わりにゴシキヒワを画中によく描いています。

1480年代になるとベルガモやヴェネツィア内陸部での仕事が多くなり、1499年頃死去したと考えられます。

彼は比較的多作の画家で、ヴィヴァリーニ一族3人の中では、共作も含めバルトロメオの作品をイタリアの教会や世界の美術館で最も多く見かけました。