ポン=タヴァンとその周辺の地域が、多くの芸術家を惹き付けることになったのは、19世紀後半に鉄道が発達してからのことでした。
1862年、コローがやって来て滞在したのを皮切りに、1880年頃には外国人芸術家が100人近くいたといいます。1886年にはゴーギャンが最初の滞在をし、フランス人芸術家も増えて行きました。
彼らは皆、この町の光とアヴァン河口の田舎風の風景、安い生活費、喜んでモデルになってくれる伝統的な生活をする住人たちに魅了されたのです。
大西洋に突き出す半島の形状をしたこの地方は、フランスの先住民族であるケルトの習俗・伝承が色濃く残る土地として、芸術家たちの想像力をかき立てていました。
「ポン=タヴァン美術館」はこの街に集った芸術家たちの作品を展示するべく1985年開館。町の入口にゴーギャンの「黄色いキリストのある自画像」をあしらった大きな美術館の案内板がありました。
美術館はガラスの入った大きな開口部によって外に開かれたモダンな造り。
ただ肝心のゴーギャンの作品展示は、油彩画は無く、パステル画1点とグラフィック2点があるのみでした。
彼の弟子で、どちらが綜合主義(第548回参照)の開発者かを巡って喧嘩別れしたエミール・ベルナールの「ポン=タヴァン風景、または赤い木」がありました。
ベルナールはフランスのリールで、1868年、繊維業者の息子に生まれました。10歳で家族と一緒にパリに移り住み、16歳で画塾に通うようになり、18歳で画塾を出て、ノルマンディーやブルターニュ半島を旅します。
その年の冬、パリでゴッホと出会います。日本美術にも興味を抱くようになり、翌年春に再度ノルマンディーとブルターニュ半島を旅行して、クロワゾニスムを発展させました。
クロワゾニスムとは対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写手法のことです。
1888年8月、ベルナールはポン=タヴァンに戻ったゴーギャンと出会い、これ以後、2人は「総合主義」を作り上げていったのです。
しかし1891年、二人はどちらが綜合主義の創始者かを巡って絶交に至り、ゴーギャンはタヒチへと向かい、ベルナールはブルターニュに留まり、他のポン=タヴァン派の画家たちとクロワゾニスム、そして総合主義の探求に邁進するのです。
その頃の彼の代表作「日傘をさすブルターニュの女たち」を添付しましょう。
ブルターニュ地方の濃紺の民族衣装に身を包む女たちは話を交わすことなく、中央の三人は大地に腰を下ろし、画面右側に配される二人は佇んでいます。
画面中央やや上には画面の中で最も色調の強い赤色の日傘が、その隣にはやや薄い桃色の日傘が配されています。遠景にはブルターニュの風景が描かれていますが、その空間的遠近感はほぼ無視されています。
この平面的画面構成と、目を惹く原色的な色面によって単純化された表現こそ、クロワゾニスムと総合主義の様式・表現的特徴であると言えます。
ベルナールはスポンサーを得て、1893年からエジプトやイタリア、スペインなどを旅しながら10年間を過ごし、その間結婚もしています。
1904年に帰国して、晩年のセザンヌ宅に居候して絵を描いています。セザンヌがベルナールに言った有名な言葉「自然を円筒、球、円錐で捉えなさい」はこの時のものです。
この頃から写実的なアカデミー派風の絵を描き始めました。1941年にパリで没。
ベルナールは1890年のゴッホの死に際しては葬式に参列し、最初の回顧展を開催すると共に、創刊した雑誌でセザンヌらとあわせて紹介・論評しています。
この美術館には他にも、1888年、ポン=タヴァンでゴーギャンの教唆で歴史的な「タリスマン(護符:第319回参照)」を描き、その絵を契機にナビ派の誕生と結び付けたポール・セリュジエの1作を始め、外国人画家も含む多数の作品が展示されていました。