アンドレア・デル・サルト(1486-1530)は 本名アンドレア・ダニョーロ・ディ・フランチェスコ。 仕立屋の息子だったので仕立屋を意味するサルトが通称になりました。
「芸術家列伝」の著者ヴァザーリによると、 アンドレアはピエロ・ディ・コジモに師事したといいます。 ヴァザーリはアンドレアを「全くエラーのない画家」と称賛しています。
優美で調和のとれた画風で、私にとってはジョヴァンニ・ベッリーニ、 ドメニコ・ギルランダイオに並ぶイタリア美術の代表者です。
彼等は生存中は著名な存在だったのですが、 死後ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロの陰に隠れ、 専門家の間はともかく、世間的には不当な評価に甘んじていると思います。
彼の作品は世界48箇所にあります。 アンドレアの活躍したイタリア、フィレンツェに行くと、 彼の作品は6箇所で展示されており、ウフィツィ美術館では6作、 ピッティ宮殿では14作、サンテイッシマ・アンヌンツィアータ教会でも9作、 観ることができますが、最も印象的な作品は「サン・サルヴィ美術館」にあります。
サン・サルヴィ美術館はフィレンツェの住宅地にある、 昔の教会を転用した美術館で「CENACOLO」と書かれたインターホンを押すと、 係員が開けてくれます。 Cenacolo(チェナコロ)とはイタリア語で「最後の晩餐を描いた絵画」あるいは 「食堂」を意味します。
外見は普通の住宅のようですが、入ると中は広い。
ここにアンドレア・デル・サルトの畢生の名画、「最後の晩餐」があります。 有名なミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と同じぐらいの 大きさですが、こちらはミラノの28年後に描かれたとは思えない鮮明さで、 欠落も全くない。完全な画家と言われたアンドレアのまさに完全な絵画。
世にある「最後の晩餐」とは異なり、ヨハネの福音書に基づき ユダがキリストの直ぐ右手側に何の特異性も無く描かれています。
その構成の巧みさ、色の鮮やかさ、緊迫した動き。 総合的に見てダ・ヴィンチの作に勝るとも劣らない最高の「最後の晩餐」。
剥落して色も落ち、見るも無残なダ・ヴィンチの作と比べれば、 アンドレアの「最後の晩餐」の方が絵画としての完成度は 比較にならないほど上でしょう。
1529 年スペイン軍がフィレンツェを包囲し、あわや一斉砲撃という時に、 町の外れの教会にあったこの壁画のあまりの素晴らしさに感動した隊長が、 破壊を思い留まったという逸話が残っています。
第6回でピエロ・デッラ・フランチェスカに関して414年後に起こった 同じような話を書きましたが、歴史は繰り返す、ですね。
他にもアンドレアの盟友だったフランチャビージョ、 アンドレアの工房で働いていたこともあるポントルモや ミケーレ・リドルフォ・デル・ギルランダイオ、 パッキア等の作品が展示されています。
ちなみに「最後の晩餐」と言うと、ダ・ヴィンチの作と思われるかもしれませんが、 実は同名の作品は多数存在します。 パネル画を除き、フィレンツェだけでも 私が観た「最後の晩餐」壁画を作成年代順に並べると下記のようになります。
サンタ・クローチェ博物館:タッデオ・ガッディ作:1340年頃
サント・スピリト教会旧食堂:アンドレア・ディ・チョウネ(通称オルカーニャ):1370年頃
サンタポッローニア教会:アンドレア・デル・カスターニョ:1450年頃
オンニッサンティ教会:ドメニコ・ギルランダイオ:1480年頃
サン・マルコ美術館旧食堂、現ブックショップ: ドメニコ・ギルランダイオ:1482年
フリーニョ修道院美術館:ペルジーノと弟子達:1495年頃
(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ):レオナルド・ダ・ヴィンチ:1498年)
カルツァ修道院:フランチャビージョ:1514年
サン・サルヴィ美術館:アンドレア・デル・サルト:1526-27年
サンタ・マリア・デル・カルミネ教会:アレッサンドロ・アッローリ:1582年
フィレンツェに行かれた時はウフィツィ美術館やピッティ宮殿だけでなく、 これらの壁画を観て回ると興趣も一段と増すことでしょう。
注 :
ノリメタンゲレ:キリストが復活後、喜んで近づこうとしたマグダラのマリアに言ったとされる言葉で「私に触れるな」という意味。まだ身体が清められていないからとか、まだ神の身元に召される前だからと解釈されている。絵画の主題になる事が多い。