ディジョン美術館から50mもないところに「国立マニャン美術館」があるのでここでカバーしておきましょう。
ディジョンの長官だったモーリス・マニャンと彼の姉で画家兼美術評論家だったジーン・マニャンによって収集された2000を超える美術作品が17世紀築の彼等のマンションや家具類と共に1938年国に遺贈されたものです。
宮殿前の広場から入った路地に静かに佇むその邸宅は、噴水のある賑やかな広場から一転、落ち着いた気分にさせてくれます。
マニャン姉弟は世に知られていない画家達の作品を買い求めたため、1500点もの絵画の内、著名なものはそれほどありません。
それでもジェリコー、ティエポロ、テオドール・ルソー、ブーダン、アレッサンドロ・アッローリ等がありました。
添付したティエポロ作「ポルセンナの前のムキウス・スカエウォラ」の話は前に書きましたが、要約すると、エトルリア王ポルセンナの率いる大群に囲まれたローマを救うべく、ローマ市民ガイウス・ムキウスは闇夜に隠れて城外のポルセンナを暗殺しようしますが、別の人物を殺害してしまい失敗。
怒ったポルセンナはムキウスの身体を火であぶって拷問しようとする。ムキウスは自ら右手を火の中に突き込み、痛みの表情を出さすに炎が右手を焦がすままに耐えた。
この勇気を目にしてポルセンナは彼を解放し、ローマ人の勇猛さを知ったポルセンナはローマと和議を結びます。焼けただれた右手が使えなくなったため、ムキウスはスカエウォラ(「左手の」という意)と呼ばれるようになったという。
アレッサンドロ・アッローリの「スザンナと長老たち」も公に女性の裸体を描けることから、絵画によく登場する主題です。
旧約聖書外典からのお話で、二人の長老が裕福なユダヤ人の妻、スザンナに横恋慕し、彼女が水浴びしているところを襲い「自分達の言うことを聞かなければ、おまえが若い男と密通しているのを目撃したといいふらすぞ」と脅迫しますが、スザンナは頑として拒否。
二人はスザンナが不義密通をしていると嘘の告発をして裁判を起こしますが、とある青年が長老達の証言の矛盾を暴いて、裁判は差し戻し。スザンナは晴れて無実が証明され、逆に長老達は嘘の証言をした罪で処刑されてしまいます。
アレッサンドロ・アッローリはこれまで何回か名前を出したのですが、まだ説明していませんでした。
アレッサンドロ・アッローリは1535年フィレンツェで生まれ5歳で父親と死別。家族の友人だった画家のアーニョロ・ブロンズィーノに育てられ、ブロンズィーノの工房で修業します。
19歳でローマに出、ミケランジェロに出会い、ミケランジェロの生き方と作品から感銘を受けて、ミケランジェロの影響を大きく受けた画風になりました。
1560年、フィレンツェに戻り画家としての活動を開始して、やがて成功を収めます。
ミケランジェロに気に入られ、彼からデッサンを借り受け、自分の作品に使用したと伝えられています。
また、師匠ブロンズィーノにも気に入られ、やがてブロンズイーノの養子となり、老後の師匠と同居しながら最後まで面倒をよく見て、ブロンズィーノはアレッサンドロの自宅で死去したと言われています。
ミケランジェロの影響を受けた、典型的なマニエリスム様式の画風で、フレスコ画、肖像画が得意でした。
アッローリはフィレンツェの画家系列の最後を飾る人物とも言えます。
というのも、アッローリの師匠のブロンズイーノはポントルモに師事し、ポントルモはアンドレア・デル・サルトに師事しているのです。彼らは全員フィレンツェの誇る巨匠、ミケランジェロの強い影響下にありました。
私がアレッサンドロ・アッローリを最初に認識したのは、フランス、モンペリエにあるファーブル美術館で、彼の「ヴィーナスとキューピッド」を観た時です。
今は喪失している、ミケランジェロの原作を模写したものですが、その鮮烈な色彩と、模写とはいえ借りて来たのは主題だけで、独自の左右の背景描写の見事さに感嘆したのでした。
なぜ原作が喪失しているのに、主題以外が独自だと言えるのかというと、ポントルモや第97回で参照したミケーレ・トシーニも同主題の絵を描いていて、先行するこれら2作がほぼ同一で、原作に忠実だと思われるからです。
美術館を出ると、何かの祭りの最中なのでしょうか、街の通りの両側に旗が靡いていました。