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美術館訪問記 - 427 リージョン・オブ・オナー美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:リージョン・オブ・オナー美術館正面
写真:Creative Commons

添付2:リージョン・オブ・オナー美術館中庭

添付3:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作
「老人」

添付4:エル・グレコ作
「洗礼者ヨハネ」

添付5:ティエポロ作
「フローラの帝国」

添付6:ブグロー作
「壊れた水差し」

添付7:ジャン=マルク・ナティエ作
「タレイア(喜劇のミューズ)」

添付8:ジャン=マルク・ナティエ作
「テルプシコラー(音楽と踊りのミューズ」

添付9:作者不詳
「キリストの十字架運び」

添付10:上図拡大図

前回バララットの金鉱発見の話を書きながら、ゴールドラッシュに沸いた別の 土地の事を考えていました。

それがカリフォルニア・ゴールドラッシュ。 1848年、カリフォルニアで金が発見され、全米や世界中から30万人もの人々が カリフォルニアに押し寄せたといいます。

そのため1846年には僅か200人足らずの開拓地だったサンフランシスコは 1852年には人口36000人程の新興都市へと成長するのです。

そのサンフランシスコのシンボル、ゴールデンゲート・ブリッジと太平洋を望む 絶好のロケーションにあるのが「リージョン・オブ・オナー美術館」。 

パリのオルセー美術館の近くにあるリージョン・オブ・オナーを模して1924年完成。 砂糖会社シュプレケル社長の妻アルマが彼女の収集品を納める美術館として建造し、 サンフランシスコ市に寄付したのがこの美術館。

アルマは27歳で51歳のシュプレケルと1908年結婚したのですが、 貧乏な家庭の出で、ヌードモデルをしていたこともあり、 サンフランシスコの社交界からは毛嫌いされました。

発奮した彼女はパリに行き、芸術家達と交際。特にロダンとは親しくなり、 彼の作品を多数購入しました。現在ここには172点もの彼の彫刻や素描があります。

第1次世界大戦開始で帰国した彼女はアメリカでも有数の美術品コレクターとして 活躍。このへんは第7回のイザベラ・ステュアート・ガードナーと似ています。

アルマは身長180cmの大女で、晩年 「偉大なるサンフランシスコのお祖母ちゃん」と言われました。

1995年の改装工事の際には、中庭にルーヴル美術館のガラスのピラミッドを 低くしたような採光用の窓が設置されました。

この美術館は、建物も素晴らしいが、コレクションも、カリフォルニアゆかりの 富豪たちの相次ぐ寄贈もあり、世界有数の豪華さ。

希少なジョルジュ・ド・ラ・トゥール作品が2点あるのを始め、ティツィアーノ、 ティントレット、グレコ、レンブラント、ティエポロ、ゴヤ、ブグロー、コロー、 クールベ、マネ、ピサロ、ドガ、シスレー、セザンヌ、ルドン、モネ、マティス等 枚挙に暇がありません。

著名な画家の作品が数多くある中で、名前は何度か出してきたものの まだ説明していなかった一人の画家を採り上げましょう。

その名はジャン=マルク・ナティエ(1685-1766)。 パリで生まれパリで没した画家です。

両親とも肖像画家で、兄や名付け親の叔父も画家という恵まれた環境で育ち、 パリのアカデミーで15歳で第一位を獲得するなど若くして頭角を現し、 ルイ15世統治下のフランスで最も成功した肖像画家の一人となります。

この時代には貴婦人やその夫をギリシャ・ローマ神話の神々や人物に見立て、 その姿を借りた肖像画の制作が流行していました。

ナティエはその第一人者として、特に貴婦人を甘美で優雅に気高く美しく、 神話的な要素や寓意を取り入れながら描き、正式の王室肖像画家として成功します。

この美術館にある2作もミューズ(女神)に見立てた貴婦人の肖像画で、 装飾的で豪奢な肖像表現の中にメランコリックな甘美性を加え、女性の輝くような 肌の美しさ、それを引き立たせる寒色系の衣装や背景で巧みに表現しています。

どちらも単なる肖像画に終わらせず、背景に明瞭さを抑えた意味ありげな光景、 モデルも斜めのポーズで動きを演出し、両手に属性を示す小道具を持っています。

彼の作品は世界中の美術館で見られますが、いずれも一目で彼の作品と判る 独自の個性を主張しています。

ところでこの美術館にある作品でいまだによく判らないのが、 作者不詳、15世紀頃ベルギーの画家の作という「キリストの十字架運び」。

このキリストの右足の指は6本あるのです。この絵を1986年に初めて見て以来、 キリストの登場する絵に遭遇する度に注意して指を見ているのですが、 6本指の絵はこれだけしかお目にかかったことがありません。

最後に行った時、詳しそうなスタッフに尋ねても認識すらしてなく、彼が この美術館に足繁く通っているという美術教師を探して連れて来てくれたのですが、 その方も初めて気が付いたということで、話にならないのでした。

退職した年に通ったカルチャーセンターや大学生涯学習講座で、 著名な先生方に美術館本に載っている該当図を見せながらお尋ねしましたが、 どなたも認識すらされておられませんでした。