アンドレア・パッラーディオが設計し、現在、美術館になっている建物が ヴィチェンツァにあります。それが「キエリカーティ宮殿絵画館」。
町一番の大通り、アンドレア・パッラーディオ大通りの突き当りに マッテオッティ広場があり、この広場に面してキエリカーティ宮殿が建っています。
この宮殿はヴィチェンツァの貴族キエリカーティが1550年、パッラーディオに 設計させたもので、パッラーディオが生きている間に完成したのは南棟だけでした。 全部の完成は1680年までずれ込んでいます。
美術館となる建物を探していたヴィチェンツァ市は、1839年にこの建物を キエリカーティ家から買収し、改修した上で1855年、絵画館を開館しました。
14本の円柱が2層に並び、屋上にはそれらに対応して14体の彫刻が飾られている 壮麗なパッラーディオ様式のファサードに感嘆しながら入口を抜けると、 天井や壁がスタッコとフレスコ画で華麗に装飾されている大広間に出ます。
昔の宮殿の趣を残すこれらの部屋を抜け2階に上がると絵画館。
パオロ・ヴェネツィアーノに始まり、バッサーノ親子、チーマ・ダ・コネリアーノ、 ティントレット、ヴェロネーゼ、リッチ、ティエポロ親子等の ヴェネツィア派の画家達が壮観です。
パオロ・ヴェネツィアーノは「14世紀ヴェネツィアの最重要画家」と言われ、 生没年は確定していませんが、1300年頃生まれ1365年頃没したとされます。
当時の画家としては珍しく、沢山の署名、日付入りの彼の作品が残されており、 ヴェネツィア共和国お抱え画家だったと考えられます。
金地画面で、いまだビザンチン美術の影響下にありますが、後期の作品は ゴシック様式に近づき、独自のイタリア絵画を作り上げていく過程を見せ、 ヴェネツイア派の祖と言われます。
バッサーノ親子もまだ説明していませんでしたが、 フランチェスコ・ダ・ポンテ(1470-1539)がヴェネツィアの西北60㎞程にある バッサーノ・デル・グラッパで工房を開いたのが始まりです。
バッサーノ・デル・グラッパは食後酒のグラッパと白アスパラガスで有名な街です。
フランチェスコの三男のヤコポ・ダ・ポンテ(1510-1592)が父から絵画を学んだ後、 ヴェネツィアへ出てボニファツィオ・ヴェロネーゼの工房に入り、 ティツィアーノの影響も受けながら、修行時代を過ごし、父親の死後故郷に戻り、 工房を受け継いで彼の4人の息子達と共に家業を発展させるのです。
彼は生没した故郷の名前を取ってバッサーノと呼ばれます。
ティツィアーノの流れを汲む情緒豊かな田園風景に託して聖書の主題を描き出した バッサーノの宗教画は、首都ヴェネツィアや外国の宮廷でも高く評価されます。
これらの絵は風景描写に力が注がれていたので、 バッサーノは、最初の近代的な風景画家とも言われます。
1550年代からは祭壇画を多数制作しながら、 劇的で壮大さを感じさせる様式へと画風を昇華させました。
息子達はフランチェスコ・ダ・ポンテ・イル・ジョーヴァネ(1549-1592)、 ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・ポンテ(1553-1613)、レアンドロ(1557-1622)、 ジェロラモ(1566-1621)で、いずれもひとかどの画家となっています。
そのため、4人の息子たちもバッサーノの名前で呼ばれることが多く、 美術館でバッサーノという名を見ても、6人の画家の内、誰なのか確認が必要です。
普通はバッサーノというとヤコポ・ダ・ポンテを指しますが、彼の晩年の作品は、 工房として息子たちの手も多く入っており、息子たちの作風もヤコポ・バッサーノ に倣う様式なので、現在でも帰属が議論される作品も多いのです。
メムリンクやアンソニー・ヴァン・ダイク、ガロファロ、ルカ・ジョルダーノ、 コロー、サージェント等のその他の国や地方の画家達も楽しめます。
地元ヴィチェンツァで活躍したバルトロメオ・モンターニャの作品は12点も あるのでした。
聖オニュフリウスは聖ヒエロニムス同様、 4-5世紀に砂漠で苦難の修業をしたとされるキリスト教の聖人です。