サンタンブロージョ聖堂から400mほど北西に位置するのが 「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」。
サンタンブロージョ聖堂がミラノのロマネスク様式を代表するなら、 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会はミラノのルネサンス様式を代表する と言えるでしょう。
この教会は建築家グイニフォルテ・ソラーリが1469年に完成させたものを、 ミラノ公ルドヴィ―コ・スコルツァがスフォルツァ家の霊廟に改築することとし、 1492年イタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家ブラマンテに任せたのでした。
現在の教会はドメニコ会特有の赤レンガを使ったミラノ・ルネサンス様式と なっており、正面は、赤レンガに白大理石で扉口や窓の周りを白大理石で装飾し、 後陣は白大理石を使った円筒形の外観で、どこから見ても美しい。
一方ルドヴィ―コは当時彼に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチに命じて 敷地内の修道院の食堂に「最後の晩餐」を描かせることにします。
レオナルドは1495年から1498年にかけて420 x 910cmの大作を完成させます。
じっくりと時間をかけて何回も塗り重ねながら仕事を進めるタイプの画家だった レオナルドは、漆喰の乾く前、約8時間以内に一定部分を描き終えなければ ならないフレスコ画法を嫌い、加筆や習性が自由なテンペラ画法を採用しました。
その結果、この壁画の耐久性は脆弱で、20年も経たないうちに傷み出し、 レオナルドの弟子のジャンピエトリーノが後世のために 1520年頃、油彩で描いた縮小模写(298 x 770cm)が今も完全な姿で残っています。
何度か引用して来ている「芸術家列伝」の著者ヴァザーリが1556年に見た時には 「しみの塊にしか見えない」という惨憺たる状況を呈していました。
その後、1652年には壁画の下に扉がつけられることになり、イエスの足の部分が 切り取られたり、18世紀には馬小屋として使われたり、記録に残っているだけでも 6回の加筆修復が行われたり、第二次大戦下で爆撃を受けたりして来ています。
それでも奇跡的に現在まで姿を留めているのに感謝しなければならないでしょう。
1977年から1999年にかけて、表面に付着した汚れの除去と後世の修復による 顔料の除去がピニン・ブランビッラという1人の女性修復家のみの手によって、 ジャンピエトリーノの模写も参考に行われました。
これによりレオナルドのオリジナルの線と色が蘇りました。 しかし剥落や色落ちも激しく、完全に壁が剥き出しの所もあります。
傑作であるのは疑いもありませんが、私には色のはがれた絵画が絵画として 成り立つのかは疑問があります。 デッサンや構図、美術史的な価値は勿論認めますが。
食堂の反対側の壁にはジョヴァンニ・ドナート・モントルファーノが 1495年に描いたキリスト磔刑図のフレスコ画があります。 こちらは若干のはがれを除いて遥かに鮮明に残っています。
モントルファーノはミラノで活躍した画家一家の一員で、 主にこの絵だけが知られています
とにかく「最後の晩餐」が抜群の集客力を持つのは確かで、 この絵の見学は完全予約制になっており、当日でも入れないことはありませんが、 かなり並ぶのを覚悟しなければならない状況です。
観光客は全てレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」だけが目当ての様で、 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に入る人は全く見かけませんでしたが、 教会も立派で、左第6礼拝堂にはパリス・ボルドン作の祭壇画 「聖家族とアレクサンドリアの聖カタリナ」もありました。