美術館訪問記-378 ゼービュル・ノルデ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ゼービュル・ノルデ美術館

添付2:ゼービュル・ノルデ美術館内の1室

添付3:ゼービュル・ノルデ美術館最上階

添付4:ノルデ作
「磔刑」 1912年

添付5:ノルデ作
「ノルデ夫妻」1916年

添付6:ノルデ作
「海原」 1916年

添付7:ノルデ作
「庭の花々」 1919年

添付8:ノルデ作
「アイリスとポピー」水彩画

添付9:庭から見たゼービュル・ノルデ美術館

ドイツ2番目の大都市ハンブルクから北に200㎞ほど車を走らせると、 北方特有の透明感のある澄んだ空と平らな緑地が広大に広がるデンマーク国境が あります。この国境近くのノイキルヒェンにエミール・ノルデの個人美術館 「ゼービュル・ノルデ美術館」があります。

ノルデの本名は、エミール・ハンセン。1867年、ドイツのシュレースヴィヒ地方の ノルデ村に生まれました。第一次大戦後、この地方はデンマークに割譲されたため、 ノルデはドイツの画家ともデンマークの画家とも表記されます。

ノルデは最初家具工場に勤め、その後カールスーエで学び、スイスでデッサンの 教師の職を得ます。しかし1899年、31歳になったノルデは子供からの夢だった 画家になる決心をし、職を辞し、パリへ出てアカデミー・ジュリアンに通います。

デンマークの女優アーダ・ヴィルスドルフとたまたま駅の構内で出会い、 恋に落ちます。二人は生涯連れ添うことになります。

1906年、はじめて個展を開いたノルデの作品を見てキルヒナーが感動し、 ブリュッケのメンバーとなってくれるよう説得します。元来群れることを嫌う ノルデですが、結局、一年だけ付き合いでブリュッケのメンバーとなりました。

そのため、現在までノルデは、ドイツ表現主義に分類されています。 実際は彼の絵画はノルデ個人の流儀で、宗教画や人物画、風景画、静物画などを 描きましたが、いずれも一目で彼の作と判る個性を主張しています。

その後も「青騎士」などさまざまなグループと関わりはしましたが、 深入りすることはありませんでした。

彼は1920年代からナチスの支持者となりますが、1937年にノルデの作品は 「退廃芸術」との烙印を押され、1052点が美術館から押収されてしまいました。 これは「退廃芸術者たち」の中でも圧倒的に最大多数を占めました。 それだけ彼の作品がドイツ国内で評価され、美術館が所蔵していたということです。

さらに、これらの作品は「退廃芸術展」で展示されたあげく、 5000点もの作品と一緒に燃やされてしまいます。

ノルデはドイツ社会から非難を浴び、美術院から除名されて 絵画制作や画材購入まで禁止されるに至るのです。

その通告に70歳のノルデはショックを受けますが、密かに小さな和紙に水彩画を 描き続け、ノルデはそれらを「描かれざる絵画」と名づけました。 油彩は匂いが室内に残るため、何時検閲官が踏み込んでくるか判らない状況では 使うことができなかったのです。

戦後はこれらの絵を改めて大きく描きなおす画業を再開し、1956年に没しています。

ノルデの遺言に従って、季節ごとにさまざまな花が咲き乱れる庭とともに 公開されることになった邸宅は、現在では彼の作品の、質量共に最も充実した コレクションをもつ美術館となっています。1957年開館。

ノルデ夫妻は1926年、ノルデの生まれ故郷に近いノイキルヒェンにこの邸宅を建て 終生住んでいたのです。

車を広い駐車場に停めて、100m程歩くと受付のある全面ガラス張りの2階建ての 近代的な建物があり、売店やレストランが入居しています。 美術館になっているノルデの自宅だった建物にはそこからまた100m近く歩きます。

住居部分だった1階の部屋部屋は小さく、家具類が今も使用されているかのように セットされていました。

2階の各部屋にはノルデの水彩画やデッサン、版画が展示され、最上階は ガラス天井の広間になっており、30点の油彩画が周囲の壁にかかっていました。 美術館には油彩500点、水彩2500点が所蔵されているのだとか。

ノルデの色彩は暖かく観る者を包み込むような包容力があります。

今もノルデ夫妻が生前そうしていたように、丹精込めて育てられた花々が咲き誇る 広い庭を散策しながら、ナチスの迫害にもめげず、画業を貫き通した ノルデと妻のアーダを偲んだことでした。