プラド美術館の直ぐ斜め前にあるのが「ティッセン=ボルネミッサ美術館」。
このコレクションは元々ドイツ人実業家で美術品収集家の ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサ男爵のものでした。 個人の所有としてはイギリス王室に次ぐ世界第二のコレクションと言われました。
元来スイスのルガーノにあったものを、ハンスが元ミス・スペインのカルメンと 1985年に5度目の結婚後、彼女の勧めで1992年、この地に開館したのです。 建物は新古典様式の代表的なビリャ・エルモサ宮殿をスペインを代表する建築家 ラファエル・モネオが改築したものです。
ハンスは複雑な家族関係の遺産争いを避けるべく、 翌年全コレクションを3億5000万ドル(約400億円)でスペイン政府に売却。
カルメンも近代絵画のコレクターで独自の膨大なコレクションを所有しており、 これらは美術館に年間契約で貸し出されています。 2004年カルメンのコレクションを展示する新館が旧館に接続してオープン。 これがまた目を見張るような内容で、15部屋を使用して展示されています。
この美術館は素晴らしい。プラド美術館が19世紀初までに限られているのに対し、 こちらはドゥッチョからフランシス・ベーコンまで何でも揃っています。 特にアメリカ絵画の充実したコレクションはヨーロッパでは珍しい。
美術館は3階の1号室から順に年代順展示になっています。 64部屋もある名画揃いのコレクションで、著名画家が網羅されていますから、 気に入った絵を挙げていったらきりがないのですが、数点コメントしてみましょう。
まずは上下巻2冊で9.6㎏もある分厚いティッセン・コレクション本の表紙を飾る ドメニコ・ギルランダイオの「ジョヴァンナ・トルナブオーニ」。
このため息の出るような素晴らしい肖像画は、メディチ銀行ローマ支店長の トルナブオーニの息子の嫁、ジョヴァンナを描いたもので、 17歳で結婚した彼女はこの時19歳。二人目の子供を身籠っていました。
彼女はこの年、第2子を産むことなく天国へと旅立ってしまうのですが、 見事なこの肖像画の中に永遠の生命を得ているのです。
画中の文字は紀元前1世紀のローマの詩人マルシャルの警句の引用なのですが、 「芸術が衣装と人格、精神を再現できるとしたら、この世にこれ以上美しい絵画は ないだろう」という意味で、末尾に1488年と制作年が明記されています。
このように自信溢れるドメニコ・ギルランダイオはこの時39歳。 彼については第1, 2回で触れましたが、1449年フィレンツェの生まれで、 当代一の人気を誇り、大工房を設けて重要な注文を次々とこなし、 フィレンツェとその周辺には彼の作品が数多く残っています。
ペストで1494年、画業の盛期に没しているのが残念です。
全身像を描いた肖像画としては西洋絵画史上初というカルパッチョの 「風景の中の若い騎士」もここにあります。
ヴィットーレ・カルパッチョは1465年頃ヴェネツィアの生まれで ベッリーニ家やヴィヴァリーニ家などと同様、ヴェネツィアの大きな絵画工房の 親方だったラッザロ・バスティアーニの弟子として修業していますが、 ジョヴァンニ・ベッリーニやアントネッロ・ダ・メッシーナの影響を受けています。
この絵は1510年と彼の壮年期に描かれていますが、219 x 152cmの大画面に 種々の動植物や甲冑を纏い凛々しく剣に手をかける若い騎士、詩情漂う風景など 極めて高度な写実的細密描写にフランドル絵画の影響が強く感じられます。
憂い顔で立つ騎士の足下には、王者の尊厳、正義などを象徴する白貂が描かれ、 その上の紙には「不名誉よりは死を」とあり、その他の動植物が暗示する 様々な美徳を備えた理想的騎士像を描いたと推測されます。
ただ当時、既に没落しつつあった騎士道の時代の終焉を象徴するかのような 寂しげな風情が画面に漂っているのは、彼の卓越した技量が生み出すものでしょう。
近代絵画からはまだ採り上げていなかったドガの絵を選びましょう。
エドガー・ドガは1834年パリの銀行家の息子として生まれました。 子供の頃から絵が好きだったのですが父親の望みでパリ大学の法科に入学。
しかし1855年尊敬していたアングルに会い「デッサンを積めばよい画家になれる」 との言葉に鼓舞され、大学を辞め官立美術学校に入学。
ドガは生涯デッサンを重視し、西洋絵画史上屈指のデッサンの名手と言われます。
経済的に余裕のあった彼は1856年から58年にかけてイタリア各地に滞在し、 ルネサンスの画家達の作品を模写して腕を磨きます。
帰国後バジールやマネなどと知り合い、題材をドガの日常生活、つまり劇場や オペラ、競馬、カフェ、踊り子などに求めるようになります。
ドガは伝統通り室内制作にこだわり、モネ達印象派が戸外に出て光の効果や 筆触分割を追求したのとは一線を画していましたが、1874年の第1回印象派展から 最後の第8回印象派展まで1回を除き全て参加しています。
晩年は持病の眼病が悪化し、未発表で粘土細工の彫刻を作ったりしていましたが、 ほとんど盲目状態になり1917年没。
美術館にはドガの作品は4点展示されていますが、中では 「緑の衣装を着けた踊り子」が最も彼の特質を示しています。
ドガは座席を年間購入するオペラ座の定期会員で、楽屋や稽古場に自由に立ち入る 特権を有していました。そこで観察した情景を思いもかけぬ視点や角度から捉え、 卓越したデッサン力で掴み取り、後で組み合わせて構成し、傑作を量産しました。
この作品でも日本の浮世絵に影響を受けたという、見下ろすような視点や 大胆な構図が、パステルの軽快な色調と相まって、素早い動きを再現しています。