第20回の県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館の項で「他にはフランス人画家 ジャン=ジャック・エンネルやレオン・ボナの作品が少し」と書きながら 二人とも日本ではあまり知られていない画家なので、後で補足しなければと 思っていたのですが、何と4年半近く経ってしまいました。
両者の作品はフランスの美術館ではよく見かけますし、 それぞれ自分の名前が冠せられた美術館があります。
ジャン=ジャック・エンネルはピサロの1年前、1829年フランス、アルザス地方の 農民の子として誕生。地元やストラスブールで絵画を学んだ後、 19歳で県からの奨学金でパリの国立美術学校に入学。
10年後にはローマ賞を獲得して、5年間給費留学生としてイタリア各地の美術館で ジョット、ティツイアーノ、コッレッジョ、カラヴァッジョなどの巨匠達の作品を 模写したり、イタリアの風景を精力的に描いたりして過ごします。
ローマ賞とはルイ14世下の財務大臣コルベールによって1663年に提唱され、 絵画、彫刻、後に建築、音楽、版画も加わった各分野から、王立アカデミーの 厳しい審査で選ばれた芸術家がローマへ3年から5年間の国費留学を与えられる 制度で、フランスでは長く新進芸術家の登竜門として機能して来ています。
1968年、一時廃止されましたが、1971年から事実上復活して ローマにあるフランス・アカデミーが審査する形式で現在まで続いています。
1864年、パリに戻ったエンネルは、サロンに古代文学の牧歌的詩歌や神話を 想起させる作品を多く出品し、高い評価を得、歴史画、宗教画の多くは 国によって買い取られ、官展画家としての名声を得て行きます。
また個人コレクターからも人気が高く、引く手あまたな肖像画家としても活躍。 芸術アカデミーの会員に選ばれ、レジオンドヌール勲章も受章。 功成り名遂げて1905年死亡。
この時代は印象派を始め革新的な画風が吹き荒れた中で、 伝統を重んじるアカデミーの画家として生涯を貫いた態度は評価すべきでしょう。 特に若い女性の肖像画には伝統のみに捉われない近代的な佳作が多い。
パリの北、環状道路の内側に「ジャン=ジャック・エンネル美術館」があります。
エンネルの姪のマリー・エンネルがエンネル作品の展示の為に購入した邸宅で その後建物は所蔵品と共に国に寄贈され、1924年美術館として開館。
5階建ての古い館で4階までが展示室。 エレベーターはなく、4階まで上がると、バーゼル美術館にあるホルバインの 「死せるキリスト」同様、横長のキャンバスに横たわる男性像を描いた作品と その習作が並んでいます。
エンネルは余程この主題に惹き付けられたようで、 3階まで同様な作品が多く展示されていました。
サロンに応募していた歴史画や宗教画は買い手が多かったためか、 エンネルや家族の手元にあった作品が展示されているこの美術館には肖像画が多く、 自画像も含め多数並んでいました。
中に1点、他の小品が壁に並んで展示されているのに、その絵だけが壁の中央を 占めている作品がありました。
それが「アルザス、彼女は待つ」。
この作品は特定の人物を描いた肖像画ではなく、喪に服した若いアルザスの女性が 擬人化されたアルザスとして、毅然と正面を見据えた姿で描かれています。
この絵が描かれた1871年、エンネルの生まれ故郷アルザスは 普仏戦争の敗北によりドイツ帝国の統治下に入り、故郷喪失の悲しみを込めて、 アルザス奪還への強い意思表示となっているのです。
敗戦後、フランス人の愛国心がより一層強くなる社会背景のなかで、 この作品はアルザスの苦悩を表す絵画として象徴的な存在となりました。
そして写真や版画はもとより、陶器、歴史本、メダル、タピスリーなどに複写され、 広くフランスに普及し、エンネルの作品中でも最も知られたものになっています。