オランダの首都アムステルダムに「ゴッホ美術館」があります。
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年、オランダ南部のベルギー国境に近い ズンデルトで牧師の実質的長男として生まれています。
丁度1年前に同名のフィンセント・ファン・ゴッホが死産となっており、 ゴッホは誕生日も名前も同じ兄の墓を見ながら自己のアイデンティティに悩む 幼年期を過ごしています。
16歳でグービル商会という画商に勤めていた伯父のつてで同商会に勤めますが 7年後に解雇され、幾つかの職を経た後、見習い伝道師として自己犠牲をいとわぬ 献身的活動を始めますが、あまりの熱心さが伝道委員会から行き過ぎとみなされ、 活動停止の憂き目に会い、失望と貧困の内に放浪生活を始めます。
やがて画商勤め以来、興味を持っていたミレーの複製を模写し、デッサンを始め、 絵を描く事を生涯の仕事に定めます。時に1880年、ゴッホ27歳のことでした。
ゴッホと同じく16歳からグービル商会に勤めていた4歳下の弟、 テオの僅かな仕送りを支えに、ほとんど独学でオランダの農民や職人、 片田舎の風景等を題材にデッサンと油彩に励み、絵画を身につけて行ったのです。
レンブラントからのオランダ伝統の暗褐色の暗い調子が支配していたゴッホの絵は パリの支店の支配人になっていたテオを頼って1886年、パリに出て来て 画塾に通い、印象派や新印象派の画家達と交わり始めて劇的に変わります。
明るい色彩と、細かいタッチを重ねて描く独特のうねるような筆使いを 自分のものとしたのです。
日本を芸術家の理想の国として憧れていたゴッホは、ロートレックの勧めもあり、 日本に近い環境と信じていた南仏のアルルに1888年、移住。 南仏の陽光の下、その絵は溢れんばかりの色彩に満たされて行きます。
芸術家同士の共同生活を夢見てパリで親しくなっていたゴーギャンを呼びますが、 2か月で破局。有名な耳切り事件を起こし、以後精神が不安定になって行きます。
翌年サン=レミの精神病院に入院し、1890年に退院後、パリの北西30km程にある オーヴェル=シュル=オワーズに移り、2ヶ月後の7月、銃で胸を打ち、 2日後、急遽駆けつけたテオに看取られながら死亡。
享年37。画家としても僅か10年間の生涯でした。
身体が弱かったテオも後を追うように6ヶ月後病死してしまいます。
画商のテオの努力にもかかわらず、ゴッホの生涯で売れた作品は1点のみ。 従って短期間で膨大な作品を描き上げたゴッホの死後、多数の作品が残されました。
またゴッホは画家としてはおそらく世界で最大数の手紙を残した人であり、 弟のテオ充てに651通、画家のエミール・ベルナールや友人・知人充てが167通。 ゴッホ宛のものはゴッホの保管が悪かったのでしょうか、83通残っています。
ここで登場するのがテオの妻ヨー。本名ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル。
テオとは2年に満たない結婚生活でしたがフィンセントと名付けた一子があり、 ゴッホの遺品を整理する内に、ゴッホの天才を確信し、夫の遺志を継いで、 ゴッホやテオの友人達と協力して各地でゴッホの回顧展を催し、 日付のないゴッホの手紙を整理してゴッホの書簡集を発刊する等宣伝に努めました。
テオとヨーの子孫達も遺品を継承し、1962年、それらを全て、新たに設立された、 フィンセント・ファン・ゴッホ財団が国家の資金で買い取り、それを永久貸与して 1973年ゴッホ美術館が開館します。
1999年、黒川記章の設計になる新館が特別展示会場として付け加わりました。
ゴッホは生涯で860点余の油彩、150点近くの水彩、1000点余りの素描を残し、 その内200点以上の油彩画、500点余りの素描に加え、4冊のスケッチブックや 750通の書簡を所蔵しています。勿論世界一のコレクション。
4階建ての本館には、それらの一部が年代順に展示されています。 他では見る事のない骸骨やトルソ、馬の習作などもあります。
ゴッホとテオが購入したり、作品を交換し合ったりして集めた同時代の画家達の 作品も展示されていました。美術館が購入した作品もあるでしょう。
ロートレックが描いたゴッホの肖像画やゴーギャン作の共同生活時代の肖像画、 コロー、クールベ、モネ、アルマ=タデマ、シャヴァンヌ、ピサロ、スーラ、 シニャック、ルドン、エミール・ベルナール、ドニ、ドンゲン等がありました。