シャガールがパリに出て「私と村」を描く20年前の1891年、パリの街を 彼のポスターで席巻し、ポスターを芸術まで高めた画家が出現しました。
皆さまご存じのロートレック。日本では通常ロートレックと呼んでいますが、 本当はトゥールーズ=ロートレックが彼の姓で、 欧米の美術館では必ずそう表示されています。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは1864年、フランス南西部の古都 アルビで王家の血筋にもつながる由緒ある伯爵家に生まれました。
名門貴族の御曹司として何不自由なく育ちますが、13歳で左足大腿骨を、 14歳で右足大腿骨を骨折し、以後上半身は成育したものの下半身は子供のまま。
これは両親も従兄妹同士という名門貴族故の続いた近親結婚の悪弊で、 ロートレック症候群とも呼ばれる遺伝子に起因する疾患と考えられています。
乗馬や狩猟という当時の貴族の趣味しか頭になかった父からは疎まれ、 ロートレックは幼少の頃から才能を発揮していた絵画に打ち込み、 1882年、パリに出て画塾に入り、以後パリで生活します。
後にパリに出て来たゴッホと画塾で知り合い、彼の強烈な日本かぶれに感化され、 ゴッホの弟テオが支配人だった、グービル商会のモンパルナス画廊の 浮世絵展の準備を手伝ったりして、日本の絵師達をわが師と言うようになり、 浮世絵や根付、日本刀、鎧、扇などの日本美術品を収集したりもします。
十分な財力のあったロートレックは夜毎歓楽街に入り浸り、踊り子と共に暮らし、 娼婦たちの宿に住み、彼女たちの生態を筆にしました。 生き方まで歌麿のような日本の浮世絵師に似ていると言う人もいます。
そのような中からあの浮世絵の手法を駆使した傑作ポスター 「ムーラン・ルージュ」が生みだされるのです。
一躍、時の人になったロートレックでしたが、大量の作品を描いたものの 生活は変わらず、アルコール中毒や性病も進行していき、 1900年のパリ万博の頃にはムーラン・ルージュにも通えないほど衰弱します。
それでも日本からの出展品を見たい一心で万国博には車椅子で出かけたのだとか。
1901年パリを引き払って身を寄せた母親の住むマルロメ城で息を引き取ります。 享年36。
そのロートレックの全作品の6割にあたる1000点以上を所有する 「トゥールーズ=ロートレック美術館」がロートレックの故郷、アルビにあります。
この美術館は中世の司教館であったベルビー宮殿を使用し、1922年の開館。
死ぬまでロートレックの絵画を一切認めなかった父親は、残された膨大な作品を ロートレックの小学校からの同級生で親友のモーリス・ジョワイヤンに託します。
モーリスは死亡したテオの後を継いでモンパルナス画廊の支配人になっており、 パリで最初のロートレックの個展を1893年に開催したりしていました。
ロートレックの弟を幼くして亡くした伯爵夫人は、唯一残った息子の作品を 子供の時のいたずら描きから全て保管していましたが、それらも全て モーリスの手に委ねたのです。
モーリスは国に寄贈しようとしますが、カイユボットの印象派コレクションすら 受け取りを拒否して最後に渋々その一部を受諾した、 頑迷固陋な当時のフランス当局は受け取りを拒否。
第一次大戦の終結後にアルビ市長の決断でやっとこの館に納まる事になったのです。
ベルビー宮殿は中世における南フランスの司教館の中でも屈指の規模を誇り、 高くそびえるレンガ造りの重厚な壁は、この宮殿が要塞の役割も果たしていた事を 物語っています。
元司教館らしく内部の天井は教会の天井と同じような絞り込み形状で非常に高い。
ゆったりとした空間にロートレックの油彩画、デッサン、クレヨン描き彩色画、 ポスターとその下絵、リトグラフ、手紙、写真、 書き込みのあるラテン語辞書などが展示されています。
15歳の孤独な自画像や、父が共に出かける事を期待して何頭も飼っていた馬の絵、 唯一人生涯ロートレックを愛し続けた母親の肖像など修業時代の絵も 胸を打つものがありましたが、26,7歳以降は僅かの線描でも一目で ロートレックと判る表現を自己の物にしているのですから見事です。
ロートレックは身体障害者という劣等感を持ちながらも、 明るく、人前では決して愚痴を言わず、自分を冗談の種にしていたと言いますが、 その面影を彷彿とさせる肖像画を描いた友人画家 エドワード・ヴュイヤールの作品なども展示されていました。
美術館の外に出て、タルン川沿いの庭を囲む壁上から眺める庭と、対岸、 アーチを幾つも描く橋々も古都らしく一幅の絵のようでした。