美術館訪問記-151 朝倉彫塑館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:朝倉彫塑館正面

添付2:朝倉文夫作
「墓守」(朝倉彫塑館販売の絵葉書より)
朝倉彫塑館所蔵の石膏原型は重要文化財

添付3:五典の水庭(朝倉彫塑館販売の絵葉書より)

添付4:展示室(旧アトリエ)
(朝倉彫塑館販売の絵葉書より)

添付5:朝倉文夫作
「時の流れ」
(朝倉彫塑館販売の絵葉書より)

添付6:「動静一如」制作中の朝倉文夫、1949年
(朝倉彫塑館販売の絵葉書より)

江戸時代の下町の風情を残すような谷中の住宅街の中に「朝倉彫塑館」があります。

JR日暮里駅北口から、昔江戸城内に建てられ、1709年に現在の地に移転された 月見寺とも呼ばれる本行寺を右手に見て、200m足らず行った路地の左手です。

ここは「東洋のロダン」と呼ばれた彫塑家朝倉文夫(1883-1964)の 自宅兼アトリエだった所で、1986年に台東区に移管され、 台東区芸術文化財団が運営・管理しています。

朝倉文夫は大分県の村長の家の生まれで、19歳で彫刻家だった兄を頼って上京し、 翌年東京美術学校彫刻科選科に入学。

寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭し、卒業の翌年には文部省が日本の美術振興のため 1907年から始めた文展の第2回で、見事最高賞を獲得するまでになります。

1910年には最高傑作ともいわれる「墓守」を発表したりして、文展にも連続入選。 第10回文展では34歳の若さで最年少審査員に抜擢されています。

38歳で東京美術学校の教授に就任。

高村光太郎と並んで日本彫塑界の重鎮と見做され、1948年には文化勲章も受章。 功なり名遂げた生涯でした。

娘の朝倉摂は舞台美術家・画家に、朝倉響子は彫刻家になっています。

建物は鉄筋のコンクリート造りのアトリエと、丸太と竹をモチーフにした 数寄屋造りの住居で構成されており、アトリエの屋上は庭園となっています。

オリーブの大樹があり、私が訪れた10月末にはたわわに実をつけていました。 ここからの眺めは周りに遮るものが何一つなく、素晴らしい。

敷地の中央には自然の湧水を利用した日本庭園があります。

滾々と水を湛え、仁・義・礼・智・信を表すという5つの巨石が配され、 五典の水庭と呼ばれる雅趣溢れるもの。

3階まで吹き抜けになっているアトリエは床面積が175㎡もあり、 今は展示室となって朝倉の作品が並んでいます。

「時の流れ」等の裸像は呼称通りロダンを彷彿とさせる物がありました。

また室内のあちこちにも朝倉が好きで多い時には16匹も飼っていたという 猫の彫刻等が置かれています。

この館は朝倉文夫自身が設計、監督して7年の歳月をかけて 1935年に完成したとかで、和洋がうまく調和した見事な住まいです。

書斎には天井までうず高く書籍が積まれ、 朝倉文夫の並々ならぬ見識を物語っています。 同郷の双葉山との親交を示唆する品もありました。

この日は西洋人の団体が来ていましたが、芸術と日本の伝統文化を 一度に味わえる一石二鳥の場所として人気があるのだそうです。

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