美術館訪問記-141 市立レンバッハハウス美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:市立レンバッハハウス美術館

添付2:市立レンバッハハウス美術館中庭

添付3:市立レンバッハハウス美術館内部

添付4:レンバッハ作
「妻や娘達と一緒のレンバッハ」1903年

添付5:ガブリエレ・ミュンター作
「ヤウレンスキーとヴェレフキン」

添付6:フランツ・マルク作
「牛、黄―赤―緑」

添付7:カンディンスキー作
「ガブリエレ・ミュンターの肖像」1905年

添付8:カンディンスキー作
「印象III <コンサート>」1911年

ドイツ、ミュンヘンに「市立レンバッハハウス美術館」があります。 1891年完成した肖像画家レンバッハ伯爵邸の一部を改造して造られました。

フランツ・フォン・レンバッハ(1836-1904)は石工職人の生まれでしたが、 画家を志し、奨学金を得て、イタリアで古典を模写して腕を磨き、 23歳でワイマールのアカデミーの教授になります。

ここでパトロンになったアドルフ・フォン・シャック男爵の依頼で、教授を止め、 彼のコレクションのためにドイツ、フランス、イタリアの美術館で 多くのイタリア・スペイン絵画を模写したことが、更に技術の向上に繋がります。

29歳でミュンヘンに居を構え、肖像画家として、当時産業革命で台頭した多くの 新興富裕層の需要を掴み、時の宰相ビスマルクや皇帝ヴィルヘルム1世、 法王レオ13世等錚々たる顧客を得て、レンバッハに肖像画を描かせる事が 一種のステータス・シンボルになるまでに至ったのです。

45歳で授爵した彼は「画家貴族」として、ミュンヘンのサロンの中心人物となり、 著名人達をもてなすに足る家ということで、このローマの別荘に範をとった 大邸宅を構築。古代彫刻や中世の絵画、希少な絨毯、タペストリーで内装し、 王侯貴族のような住まいを造り上げました。

レンバッハは1904年に死亡。

未亡人は1924年にミュンヘン市に所有財産を譲り渡すことにし、 その際大多数のコレクションを寄贈しました。

1929年、市は翼廊を継ぎ足し、市立美術館として開館。

1957年ガブリエレ・ミュンターが80歳の誕生日を機に市に膨大な寄贈をしました。 これによりレンバッハ邸は一夜にして世界的に価値のある美術館に変貌したのです。

というのも、ミュンターは設立当初から「青騎士」グループのメンバーだった 女流画家で、創立者のヴァシリー・カンディンスキーの事実上の妻として、 カンディンスキーの殆ど全ての版画と青騎士メンバーだったヤウレンスキー、 マルク、マッケ等に加えミュンター自身とカンディンスキーの油彩画、水彩画、 スケッチ、アルバム、ガラス絵等を所有しており、これらが全て流れ込んだのです。

カンディンスキーは1910年、抽象絵画を創始したとされており、 1902年から1916年までを彼と共にしたミュンターは その前後の重要な作品を殆ど所有していました。

つまり、ここでは抽象画の成立する様と、後世に多大な影響を与えた青騎士の メンバー達の作品群を一望できるのです。

その上レンバッハの豪華な邸宅と彼の作品やコレクションを楽しめるのですから、 これまでの画家の家とは一味違うと言えるでしょう。

注:青騎士:ドイツ表現主義の重要な前衛運動。1911年ミュンヘンで カンディンスキーとフランツ・マルクを中心に結成。原始美術や民衆芸術を称揚し 抽象化と単純化と色彩の力で、芸術に精神的価値を吹き込む事を目指し、 純粋な精神的造形としての抽象への道を開いた。第一次世界大戦の始まった 1914年には自然消滅した短命な運動だったが、後世に与えた影響は大きい

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