ルーベンスに対抗し得る画家というと、 晩年フランス王フランソワ1世の庇護を受け、父親同様に遇されたと言う、 万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチでしょうか。
彼は永住の家を持つことなく、パトロンを求めて移動しました。
唯一、彼が生まれて少年期までを過した生家が保存されています。
レオナルドの名称となったイタリア、ヴィンチ村から、 一車線しかない山道を車で5分程登った所に、 1452年生まれの彼の生家が残っているから驚きです。
周囲に人家もなく、3部屋のみの平屋です。天井は高く5mはあるでしょうか。 10cm厚程の木材が屋根裏を支える形で魚骨形に張られており、 その上にレンガが置かれています。
外部に飾り一つない農家の佇まい。 内部には物は何もなく、若い男が一人、番人として座っています。 撮るものとてないのに撮影禁止。
何もない空間を撮らせたくないために番人を置く。 何やら禅問答のような気がしました。
外はオリーブの木以外何もない。 眺望を遮る物とて何一つなく、遠く低い山野が望めるのみ。
このような環境から、如何なる要因がレオナルドのような天才を創り出したのか。
ルーベンス・ハウスとは正反対ともいえる家。
しかし、歴史の重みを感じ、 そこから生まれ出でた人について深く考えさせられたのは、 人工的な物の殆どない「レオナルド・ダ・ヴィンチの生家」の方でした。
レオナルドは公証人を父に、農民の娘を母に持ち生まれました。 父母の間に婚姻関係はなく、レオナルドの誕生後数カ月してそれぞれ別人と結婚。
日本もそうでしたが、当時は庶民には姓はなくレオナルドもその名前しか 与えられていません。ダ・ヴィンチはヴィンチ村生まれのという意味です。
この生家で祖父に育てられ、5歳になって父の家に移ります。 14歳でフィレンツェに出て、彫刻家で画家のヴェロッキオの工房に弟子入り。
先輩弟子にはボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノ等がいました。
ここで彼は広範な分野の理論と実技を学ぶ事になります。 それらは建築、化学、冶金、金属加工、石膏鋳造、皮革加工、大工仕事に及び、 これらにデッサン、絵画、彫刻、モデル作りが加わるのです。
レオナルドが30歳でミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに提出した自薦状には、 橋造り、排水法、城塞破壊、地下道建設、戦車・大砲・火器製造等の軍事技術能力 を列記し、最後に、建築、絵画、彫刻に関しても誰にも負けないとあります。
レオナルドが万能の天才と言われるのは、芸術家・科学者・技術者として どの分野も一流であった事を意味しているのです。
彼が描いた今に残る最初の絵画は、師のヴェロッキオ作の「キリストの洗礼」の 左側の天使と背景で、21歳頃と考えられます。
師の描いた右側の天使が村の子供のように見えるのに対し、 レオナルドの描いた天使はノーブルで神性を備えているように見えます。
根本的な資質の差と言うしかありません。
これまで何度か引用したヴァザーリは、「ヴェロッキオはレオナルドの才に驚愕し 以後二度と筆を取る事はなかった」と記しています。
実情は工房の絵画部門はレオナルドに任せ、 自分は本業の彫刻に専念したという事のようですが。
レオナルドは30歳でミラノに移り、工房を開いて独立します。
17年間の滞在後フィレンツェに戻り、以後ローマとミラノに何度か滞在。 64歳でフランソア1世の招きでフランスに行き、67歳で死去。
現在残るレオナルドの作品は未完のものを入れても22点前後に過ぎません。
それでも彼が人類史上最高の画家と謳われるのは、 その完璧さと気品にあるのでしょう。
彼の絵には粗野で軽薄な所は微塵もなく、深沈として厳粛、憂愁と諦観を含み、 まるで全てを知る賢者の筆になるかのようです。